いま 写楽がブームらしい

2011年6月11日



大震災の影響か、会期が延長された東博の「写楽 特別展」が明日12日に終わるが、以前から謎とされた写楽の正体がわかったということも、ブームを助長しているのだろう。
この「わかった」とは、「ほぼそうではないか」と推理され、ある程度の結論らしき人物が浮かび上がったということ。
推理は推測の域を出ないにせよ、「なるほど、もっともな部分も多いな」と思う。
もともと写楽に深い思い入れはないから、私の関心も、いまひとつ盛り上がらない。
それでも浮世絵は好きだ。
好きだけれど、歌舞伎の役者絵や、歌麿が描く美人画よりも、北斎のような名所絵に惹かれてしまう。

写楽の代表作のひとつ、1794年に描かれた、市川蝦蔵の竹村定之進。
(Wikiには1795年とあるが、私はそれを採らない)
今でこそ評価は高いが、役者絵といえば、当時のブロマイドのようなもの。
面長の顔や、極端にデフォルメされた鼻の大きさなど、描かれた本人の蝦蔵の心中やいかに。
時代は天明の後の寛政年間。
幕府将軍は、第11代の徳川家斉だった。

写楽研究は進み、さまざまな説が登場した。
ググれば、これでもかというくらいに、写楽に触れたサイトが登場するだろう。
関連本も、あまた出版された。
内容といえば、お決まりの「写楽の正体探し」で、中にはトンデモ本も登場し、流し読みながら、失笑したことを覚えている。
その中で、「写楽はこの人物で決まり」という文書がある。
写楽は俗称であり、本名は斎藤十郎兵衛。
阿波藩お抱えの能役者で、江戸八丁堀に住んでいたとある。

東洲斎の三文字をばらし、アナグラムとして単純に並び変えると「斎藤」が浮かび上がる。
これは最近では誰もが知っているようだから省くが、十郎兵衛の簡単な記載が、過去帳に残っている。

八町堀地蔵橋 阿波殿御内 斎藤十良兵衛(一文字不明) 行年五十八歳 千住ニテ火葬

八町堀(八丁堀)地蔵橋が気になって、何枚かの古地図を開いてみた。
先ずは元禄二年(1689年) 相模屋太兵衛版。
この辺りが八丁堀なのだが、時代も古いし、大雑把すぎて分からず。
(以後、北の方角はすべて右表示)

時代は大きく飛んで、黒船来航後になってしまうが、上の古地図は安政六年(1859年) 須原屋茂兵衛版。
何となくイメージが膨らんで来た。
亀島川から引き込まれたクランクの堀割が怪しい。
越中松平家の江戸屋敷(上屋敷?)に突き当たって消えるのだが、八丁堀といえばこの界隈がすべてで、橋らしきものが確認できる。
ちなみに、亀島橋からそのまま上(西)へ進むと、現在の東京駅(八重洲)正面に至る。
立派な道路が通じ、松平様のお屋敷など、今は跡形もない。

やっと見つけた地蔵橋。
これに間違いあるまいと、勝手に断定した。
写楽が十郎兵衛とすれば、この近くのどこかに居を定めていたことになる。

時代はさらに六年下った文久二年(1865年)の「尾張屋版江戸切絵図 八丁堀再見絵図」
わずかこの99年後に東京オリンピックが開催されたことを思うと、江戸時代など、つい最近のことなのだなと感慨も浮かぶ。
水路が張り巡らされた江戸の町は、以後の埋め立てによって大変貌を遂げたが、時代の趨勢とはいいながら、その情緒や風情の欠片すら探すことは難しくなった。

クランクの掘割は消えてしまったが、日本橋川から分岐する亀島川は健在だ。
その最下流に架かる南高橋を渡った。
橋のすぐそばには、隅田川からの逆流を防ぐ水門があり、何年か前、その水門で水死体が浮かんでいるのを目撃したことがある。
橋の上にはパトカーが停まり、水上警察の巡視艇が一艘泊まって、遺体の収容作業をしていた。
水死体などは珍しくもないらしい現在の東京の川も、ほんの百年前には、白魚が揚がるほどの清流だった。
外来生物が在来種を駆逐するように、東京はこれからもグローバル化の波に抗しきれず、いつまでも変化し続けるのだろう。

ところで、中央区報(正しくは「区のおしらせ」という)の5月21日号に、南高橋の記事が載っていた。
少々面倒な作業だが、転記してみる。
(関心は、もう写楽から離れている)

 南高橋は、新川地区と湊地区の間を流れる亀島川に架けられた橋です。架橋位置は、亀島川と隅田川がちょうど合流する地点になります。橋の構造は、橋長63.1メートル、幅員11.0メートルの鋼鉄トラス(三角形を基本とした骨組構造)橋です。
 南高橋は、江戸や明治の頃からあった橋ではなく、大正十二年(1923)の関東大震災の後に行われた帝都復興事業(土地の区画整理や街路・橋の工事など)によって新たに架橋された橋でした。
 実はこの橋、当初の復興事業には架橋予定はなく、その後の事業変更によって建設することが決定しました。そのため、区内の復興橋梁(震災後に架橋された橋)のほとんどが昭和四年(1929)頃までに完成していますが、南高橋の場合は着工が昭和六年、竣工が昭和七年とやや遅れています。
 さらに、工事費を予算の枠内に収める必要から、復興橋梁として架け替える旧両国橋の一部を再利用するという、実にエコノミーな橋でもありました。
 旧両国橋は、明治三十七年(1904)に三連のトラス橋として架けられた特徴的な橋で、南高橋の部材に利用したのは旧両国橋の中央径間部分です。なお、南高橋に転用する際には部分補強していますが、現在まで大きな改修工事もなく、竣工当時の状態を良く保っています。
 都内に残る明治期の鋼鉄トラス橋には、明治十一年(1878)架橋の旧弾正橋(現在は江東区白河に移設され「八幡橋」と改称:重要文化財)などがありますが、南高橋のように、明治期の鋼鉄トラス橋を用いた現役の道路橋である橋は、全国的にみても稀少であり、近代の土木遺産として貴重な文化財です。
(中央区主任文化財調査指導員 増山一成)


南高橋の東詰に、お稲荷さんがあった。
場所を考えれば水神様なのだろう。
たしか、由来が書かれていたはずだが、すっかり忘れた。

橋上から上流を眺める。
写楽が生きた時代を偲ぶよすがの何ひとつもないが、権力構造が変わって江戸が明治になり、大正、昭和、平成へと時代は連続している。
目の前に見える高橋の先には亀島橋があり、新亀島橋、霊岸橋と、日本橋川まで水路が延びている。
はて、赤穂の浪士たちは、永代橋からどの橋を渡って高輪まで行ったのか、すっかり記憶が飛んでしまっている。

歴史を身近に感じたとしても、感じる人間の寿命はやはり短い。
その短さゆえに、さまざまな愚行が繰り返されるわけだ。
「歴史は繰り返す」
同じことを繰り返すなら、東京を緑豊かな江戸時代に巻き戻したい。



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