行き暮れて
少し前に藤原俊成について書き、次は平忠度に触れると宣言したので、約束を守ります。
最近は聞かなくなったが、電車などの運賃をごまかして無賃乗車することを、以前は薩摩守(さつまのかみ)といった。
要するにキセルなどの不正乗車のことだ。
薩摩守とはもちろん平忠度(ただのり)であり、可哀そうに、そんなことの方で有名になってしまった。
忠度は清盛の末弟(異母弟)である。
平家の武将といえば、私が一番に思い浮かぶのは知盛だが、忠度も一門の中にあっては名だたる武将であり、一番の歌人でもあり、文武両道の男であった。
そんな男もやがてお歯黒をつけた公達となり、驕れる平家を象徴するような存在でもあった。
しかしこのお歯黒が命取りになった。
一の谷西側を護る大将であったが、源氏にまぎれて戦おうとしたものの、平家の武将と見破られ、源氏方の御家人で、義経の配下に組み入れられていた岡部六弥太忠澄に討ち取られて果てた。
行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし
甲冑の箙に括りつけられていた歌で、「旅宿花」との簡単な前書きがあり、忠度の辞世とされている。
源氏に京を追われ、平家が都落ちする際には藤原俊成の元に引き返し、「生涯の面目に一首たりとも御恩を」と、勅撰集への入集を涙ながらに懇願している。
俊成が了解すると百首余りの歌を預け、「草の陰にてもうれしと存じ候」と告げて戦場に戻った。
武名をとどろかせるより、勅撰集に採られることの方が、よほど名誉であると考えていた気配が濃厚である。
このあたりの内容は平家物語に詳しいが、まるで見て来たような記述の羅列で、どこまでが事実かは疑わしい。
現代人にも読みやすい和漢混淆文の平家物語に限らず、平治物語、保元物語、源平盛衰記などの軍記物には脚色が多い。
特に義経記などはその最たるものであり、判官贔屓そのものの内容としてまとめられてある。
それでも滅亡する平家にあって、光彩を放つ残照とでもいうべき忠度のこれらのエピソードは、後世の読み手の胸を打つ。
忠度の話に戻るが、これらのエピソードは無賃乗車の次に有名な話であって、多少でも忠度のことを知っている人には煩わしかったことだろう。
今回も余計なことを書き過ぎた。
忠度は以下の歌も遺している。
月影の入るをかぎりに分け行けばいづこかとまり野原篠原
忠度は、どうも野宿が好きな男だったようだ。
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