Death Education


井の頭公園の象、はな子が死んだのは2016年と記憶している。
私より年長の、69歳の大往生だった。
三度訪ねて、実際に会えたのは二回。
それももう10年以上も前のことだ。

さまざまな人がはな子に自分の思いを仮託したのは充分承知していたけれど、それは見る側の人間の思い入れで、はな子はそれらを関知していないはずだ。

仮託するのは一向に構わないが、こんな環境に長く留め置かれた彼女に同情する意見はマイノリティであった。

子供の頃から漠然とした違和感があった。
こんなコンクリートに固められた狭い空間に数十年も閉じ込められ、はな子は果たして幸せだったのだろうか。
ここ数年で、動物園へは2回行った。
行ったけれど、やはり心のどこかに巣食う違和感は拭えなかった。

子供の情操教育などには有効なのだろう。
最近はどこの動物園でも来園者が生態を観察し、理解できるような工夫がなされている。
だがそれも人間にとってのものだ。

レンゲ草ではないが、動物だって、やはり野にあってこそ本来の姿、生命と思うのだ。
スケルトンの筒を上下するアザラシ、ポリタンクで遊ぶシロクマ、コンクリートの山を駆け回るニホンザル。
どれもこれも自然を模した不自然な構造物や人工の遊具で遊んでいる。
自然の姿は見たいが、不自然なものは見たくない。

ニホンザルに関しては、何度も野生の群れに遭遇しているので、余計にそう思う。
人工芝の上を歩いたり、トンネルを行き来するペンギンなども見たくない。
飼い慣らされたイルカだってそうだ。
(でもこれはちょっと見応えがあって面白かったが、突き詰めて考えれば同じこと)

決まった時間に栄養バランスのとれた食事が与えられ、閉園になればこれもまた人間が清掃しやすいコンクリートで造られた寝ぐらへ帰る。
単調な日々を繰り返す社会人は、そんなことを我が身に置き換え、自らの慰撫としている。

なるほど、悩みやストレスを抱えた人間には格好の場所だし、子供たちには未知の動物を見学できる便利な施設だ。
溝や柵や檻を隔てていれば安全で、動物もそのパーソナルスペースを体験学習するから、互いに安全な動物と認識する。
天敵がいないから無防備に腹を見せて堂々と昼寝や日向ぼっこをしている。

動物園が不必要だと騒ぐつもりはないが、人の視線に慣れ切ってしまった生き物は、本当に「生きている」のだろうかと懐疑的になるのも事実。

はな子の場合、かつて殺人象の汚名を着せられたこともあるが、ただ一頭でコンクリートの地面に立ち、毎日、限られた同じ風景だけを見て、そんな我が身をどう認識していたのだろう。

野生に戻すのが不可能なら、せめてもっと生まれた土地に限りなく近い環境を与えるべきで、それが出来ぬのなら、世界中にはもっともっと最適な設備が整った動物園が数多くある。

人それぞれの思い入れは、見る人の数だけ存在する。
ならば、自分がはな子になって70年近くも監禁されることを想像する感性を持たなければ、はな子が浮かばれないと思うのだ。

アメリカのシンシナティの動物園では、絶滅危惧種のローランドゴリラのエリアに落ちた4歳の子供を救うため、ローランドゴリラが射殺された。
映像を見た限りでは、初めは凶暴な素振りは見せなかった。
ところが女性の悲鳴によって野生のスイッチが入ってしまったように見えた。

その動物園ではローランドゴリラ舎の管理体制や子供の親が糾弾され、警察が介入する事態にまで発展してしまった。
ローランドゴリラが悪いの?
子供の親が悪いの?
動物園の管理体制が悪いの?

それはみんな違うでしょ。
そもそも論で考えれば、正解なんて簡単に出ている。

これからも動物園に行く機会はあるかも知れないが、そんなことを頭の隅に少しでも持っていれば、人間とはいかに驕った生き物だということがわかるだろう。
その証拠に、死を間近にした人間の多くは、動転し、泣き、恐れ、絶望し、訴え、苦しみながら逝く。
少なくとも、私は自分の運命を呪い、恥も外聞もなく恐れわめくかも知れない。
(ここまでは勢いで書いたが、すでに諦観している)

反して、人間以外の動物は、粛々と死を受け入れているように見える。
それだけでも、動物とは何と立派なのだろうと思う。
と同時に、人間は、実は動物にも劣る存在なのではと内省してみたりする。

死への準備は必要不可避。
だから、死に際はじたばたせず、はな子のように静かに人生を閉じたいものだ。
ただ、じたばたするのも否定はしない。
死に際と往生際は、その人物の本質がむき出しになる最期の生体反応だろう。

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