世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため

2010年12月28日



タイトルの歌は在原業平のもので、母である伊都内親王の、

お(老)いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな

の「返し」である。
返しは万葉でいう返歌のこと。
内親王の歌の詞書は以下の通り。

業平の朝臣の母のみこ、長岡に住みはべりける時に、業平宮づかへするとて、時々もえまかりとぶらはずはべりければ、師走ばかりに、母のみこのもとより、とみの事とて、文(ふみ)をもてまいできたり、あけてみれば詞(ことば)はなくて、ありける歌

「長岡」は長岡京、「とみの事とて」の「とみ」は急ぎの意。
桓武天皇によって都はすでに平安京に移っており、業平も平安京にいた。
桓武帝の皇女である伊都内親王が長岡京にとどまっていた理由は定かではないが、それでも母子の地理的距離は短い。
伊勢物語でもわかるように、好き勝手な振る舞いの目立つ一人息子(父親の阿保親王にとっては第五子)は、母を訪ねる時間もないほど「盛ん」だったのだろうか。
(一部には行平(ゆきひら)を産んだとの説もあるが、これには懐疑的である)

伊都内親王の歌に戻るが、歌意はわかりやすい。
「さらぬ別れ」は避けられぬ死別、「見まくほしき」は見たい逢いたい、であって、
「老いて来るといつ死んでしまうかもわからないから、そう思うといよいよあなたに逢いたいのです」
と業平に訴えているのである。
しかしこの詞書は、古今集の編者によって後に付け加えられたと思われる。

私信の歌をまさか古今集に載せられるとは思わなかっただろう内親王ではあるが、我が子に「君かな」と敬称する心情に思いを致すと、母性の情愛が胸に迫る。
師走という、一年も押し詰まった時候も効いている。

友人の闘病が知れ渡り、なぜか私のところにお守りが届いたり渡されたりする。
現在4つ。
直接渡せば良さそうなものを、困ったことである。
もっと困るのは、本人が「要らない」と言うこと。
「そんなこと言わずにありがたく受け取れよ」
と説得すると納めてくれたが、神様仏様がごっちゃになって、運不運が混乱して収拾がつかなくなるのではと、少しだけ心配になったりする。

本人は生涯にわたって前のめりになるほど打ち込める仕事に就いていたので、その姿勢と自信が回復のスピードを加速させてくれることを願っている。


さて、業平が文を開いてみると、母の歌のみが現れて急ぎの内容ではないと判明。
それでも不肖の息子は母の気持ちを一瞬で理解し、すぐに「返し」を送った。
だから調べを合わせるために「さらぬ別れ」と母の表現を借りたのだ。
「なくもがな」は願望である。
続けて「千代もとなげく」も、千年も生き続けて欲しいとの祈りにも似た、これも願望。
「千代もと祈る」に変更されている文献もあるが、「祈る」では歌意が平板になってしまうので、私は業平の思いがこもった古今集の「なげく」を採りたい。
「祈る」の出典は伊勢物語。

彼に渡したお守りは、
「どうもねえ」
という不明瞭な言葉とともに私に返された。
周囲の行為が不満なのではなく、自力救済に集中したいとの表れと見た。
ならば一年間私が預かり、来年はお札のように、お守りを納めようと決めた。

不動明王の前で頭を垂れ、今回ばかりは大きな願を掛けた。
仏像は人間の理想型である。
現実を見据えれば理想も見えるのではないか、と安易に思ったりするが、これも人間の業に違いない。

介護の利用者さんたちも肉体の衰えを食い止めようと、日々の努力を習慣化して暮らしている。
それだけに、和歌を介しての伊豆内親王と業平の往復書簡の情愛は、深く心に沁みる。

我が身の衰えと友人の発病。
唐突に思えぬこともないが、人知の及ばぬところで蠢いている何かが確かに存在している。
師走も押し詰まって、実感することの何と多いことか。
こうして今年も暮れようとしている。

世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため

大切なのは、いま一番そばにいる人。


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