酉谷山登山

1996年6月15日(土曜日)


しばらくの間、休みが取れなかったので、山への想いが高まり、ストレスも溜まっていた。
それに前回果たせなかった酉谷山への意趣返しもある。
何としてでも登らねばならぬ。
山から離れていたこの三ヶ月に、2キロも体重が増えてしまったことも情けない。
山の空気を思いっきり吸い、いい汗をかいて来ようと思う。

5時近くに自宅を出て、日原へは1時間強。
今日は林道を使わず、ちゃんと登るつもりでいる。
小川谷林道下部の「かろう橋」に車を停め、6時20分スタート。
まずは橋の脇からカロー谷へ踏み跡をたどる。
標識などは何もないのだが、道はしっかりしており、ハンギョウ尾根から長沢背稜を目指す。

新緑に染まりながら、谷の右岸を沢音と鳥のさえずりを聴きながら緩やかに行く。
ただ、いっぱいに枝を広げた木々たちが幾重にも重なり合って、あまりにも緑が濃すぎるので、天気はいいのだが、逆に谷の雰囲気は恐ろしいほどに不気味で暗い。
ところどころに雑草のようにあるママコノシリヌグイ(継子の尻拭い)に同情する。

木橋を渡り左岸に移る。
少し行くと右からの細い流れを渡った地点に、その沢に沿って道が延びていた。
何の標識もないが、位置的にいってハンギョウ尾根の1本東にあるヨコスズ尾根へと登って行くのだろう。
もしそうであれば、一杯水から三ツドッケを稼ぐことが出来る。
これはいいと色気を出してその道を行くことにしたが、何のことはない、すぐにコースが不明瞭になってしまったので、あえなく敗退、元のコースに戻る。

すぐにちょっとした明るい広場に出た。
古いトタン板などが散乱していて興をそがれるが、ここで道はふたつに分れる。
ひとつはカロー谷の本流に沿って行く道。
もうひとつは流れを木橋で渡り、尾根へ取り付く道。
ここにも標識などは一切ない。

それほど迷うこともなく本流に沿う道を選んだ。
こちらの方が、単に傾斜が緩いということ、それにいつでも水が得られるということが大きなポイントだ。
沢伝いであれば、ギリギリまで水筒は空のままでいいので、それだけ軽い荷で高度を稼げる。
楽をできるところは遠慮なく楽をしたい。

やがて沢の最上部とおぼしき地点にたどり着く。
かつてはワサビを栽培していた跡なのだろう、細い流れの中に、幾つか小さな石垣が組んである。
野生化したワサビの葉が、ヒョロヒョロと数本あった。
ちょっと失敬して口に入れてみるが、期待した辛味はほとんど感じられなかった。

しかしここで、今まで登っていた道が、山腹を巻いて付けられた道に突き当たってしまった。
例によって水源の巡視道に違いない。
右するべきか左するべきか、相変わらず標識はない。
本来の予定に従ってハンギョウ尾根を行くことにする。
そのためには左の道だ。

水筒に水を満たしてから、よく踏まれた起伏の少ない道を軽快に行く。
が、しばらく歩くうちに妙な具合になって来た。
少しずつ下っているのだ。
もちろん多少のアップダウンはあるが、道は間違いなく下っていた。
方角は合っていても、せっかく稼いだ高度を下げるのは愉快でない。
そこでUターン、分岐まで戻る。
そしてそのまま直進、今度はヨコスズ尾根を目指す。

ところが、こちらの方がもっとひどかった。
数分進むと、等高線に沿っているとばかり思っていた道が一気に急下降しているのだ。
これには正直参った。
やむなく再度Uターン。
ハンギョウ尾根への道へ引き返す。
少しずつ下るのは仕方ない。
他に道はないのだ。

30分以上時間を無駄にして最初のUターン地点から少し進むと、道は二股に分れていた。
上に向かって付けられた道がハンギョウ尾根のルートに違いない。
相変わらず標識はないが、今度こそは間違いない。
自信を持って行く。

カラマツの樹林帯をジグザグに登る。
どこかでカジカが鳴いている。
やがて植生が自然林に変わると、あちらこちらでウグイスの声が聴けるようになった。
傾斜も緩くなり、青い空に新緑の色が映えて、美しいコントラストを見せてくれる。

10時前に稜線へ出た。
ひっそりとした峠のような場所で、ここで中休止とする。
ザックを下ろし、倒木に腰掛けて、先ほど汲んだばかりの天然水で喉を潤す。
ホッとひと息ついたところで大きく伸びをして、深呼吸で肺の隅々まで新鮮な空気を取り込む。
木々の活動が活発なこの時期は、酸素も出来たてのホヤホヤだろう。
チョコレートを舐め、どっこいしょと立ち上がる。

再び歩き出すと5分でハナト岩に着く。
露岩の上に立てば、ここはタワ尾根と石尾根の好展望台だ。
天祖山の奥には雲取山が頭を見せている。
雲は多いものの、まずまずの眺めに満足して先を急ぐ。

ウグイスの声を聴きながら緩やかな稜線を行けば、自然林の柔らかな緑のトンネルが日射しを遮り、気分を和ませてくれる。
眺望の山もいいが、こんな歩きも、登りに喘いだ後の楽しみのひとつだ。
急いではもったいないので、この部分は意識的にゆっくり歩く。
それでもハナト岩から40分ほどで七跳山直下まで来てしまった。
左はゴンバ尾根への道だ。
ここから先は前回と同じコースになる。

小休止ののち、酉谷山を目指す。
この頃から霧が湧き始め、辺りは幻想的な眺めになった。
霧に溶けて消えかかる木々の緑が、息をのむほどに美しい。
歩き始めてすぐ、今日初めての登山者とすれ違った。
中年の男性で、こちらとはまったく逆のコースで歩いているらしい。
もっとも、一杯水まで行くとのこと。
数分の立ち話で別れた。

暫くは霧が流れ、辺りの風景を濃淡に見え隠れさせていたが、やがて雨になった。
一時的な降りとは思うが、雨粒が意外と大きい。
このままでいるわけにもいかず、ザックからポンチョを取り出して被る。
しかし腹立たしいことに、案の定、雨はすぐに上がった。
再び青空が見え始めたので、ムッとしながらポンチョをしまう。

20代のカップルとすれ違う。
雲取山荘にでも泊まったのだろう。
しばらく行ったところで酉谷峠に着いた。
当然だが、前回から三ヶ月が過ぎているので、雪のゆの字もない。
ただ、藪が密集していて、あまり飛び込んで行きたくなるような道ではない。

藪を漕ぎ、尾根を伝って15分、懸案だった山頂に着いた。
そこは眺望も何もない、つまらないピークだった。
頭上でウグイスが鳴き交わすのは結構だが、蚊柱が立ち、あまり愉快ではない。

早々に退散、酉谷峠まで戻る。
あとはただ小川谷を下るだけなので、峠直下の、眺望の利く場所で腹ごしらえをして、のんびりと車を目指した。
しかし下りとはいえ、林道歩きの長さに辟易し、そんなことでやっと、長沢背稜の懐の奥深さに思い至った。

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