誰かは春を恨みはてたる

2016年4月21日




山はもう初夏の陽気である。
異常気象が季節を語る上での枕詞のようになった感のある地球では、異常が通常に移行している。
この事象のスピードが速すぎるから、肉体は追いつけずに悲鳴を上げる。

大袈裟?な書き出しで始めたが、自分の体調にばかり気を取られ、今年の春は意識の圏外で通り過ぎた気がする。
そして今夏も猛暑になりそうという。
聞いただけでもぞっとして、すでに途方に暮れている。

半日、里山を逍遥した。
雑木林は新緑の世界で、その木陰を選んで歩けば、川の流れがあり、蝶が舞い、鳥たちの囀りが賑やかで脳髄にまで沁みる。
すべてのものに命があふれ、体の細胞のひとつひとつが呼吸している感覚は貴重だ。

咲く花は千種ながらにあだなれど誰かは春を恨みはてたる 藤原興風


百人一首や三十六歌仙の一人として知られる興風は、正六位上と官位はそれほど高くはなかったけれど、前書には「寛平の御時、后の宮の歌合の歌」とあり、昇殿を許されていることがわかる。

寛平年間は宇多天皇と醍醐天皇の御代であり、この「寛平の御時」は宇多天皇と、東七条后とも七条后ともいわれる女御の藤原温子を指し、この歌合で詠んだ歌が数首残っている。

咲く花は…、も一般的には恋歌とされているようで、それは他の歌がそうであったからで、どうも混合されているように思える。
三句目と四句目を曲解している気配が濃厚で、だから引きずられているのではないか。

「あだなれど」は頼りないけれどの意で、ここでは散りやすいと素直に解釈する。
「誰かは」の反語も、誤解を招く要因ではないか。

振られ続けた男が「恨みはてたる」と詠むものだから、未練タラタラで女々しさのアピールをしていることになってしまう。
この歌合では確かに男の情けなさを前面に出した失恋の歌、


君恋ふる涙の床に満ちぬればみをつくしとぞ吾はなりける 同


も披露しているので、オール失恋ソングと誤誘導されるのも仕方ない。
あなたが恋しくて涙で寝床がびっしょり満ちて、私は澪標になってしまったと、身を尽くしに掛けて未練を誇張して、ストーカー予備軍にでもなりそうな、ちょっとアブナイ男でもある。

そこで、こんな男が詠む歌だからと十把一絡げにされて損をしている。
素直に鑑賞すれば、そんな読み込み不足も解けるというもの。

咲く花は多い(千種)し、どれもこれも頼りないけれど、いったい誰が春を恨んでいるんだい? と、半ば逆説のように逝く春を賛美していることがわかる。

古今集に入集されているのも納得。
更に言えば、恋歌ではなく春歌で採られていることも拙考の傍証と申し添えたい。

興風の生没年は不詳だが、同時代には在原業平や伊勢がいた。
伊勢は温子に仕えたことでも知られている。


山も今日は夏日になった。
逝った春を恨むことなく、ただただ無為に過ごした日々を惜しんでいる。

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