常盤御前 其の弐


前回の「常盤御前 其の壱」からの続きです。

常盤と、今若、乙若、牛若の母子四人は、早朝に清水寺を発ちます。
ここからは六波羅があまりにも近すぎて危険だと判断したからです。
平氏の方では、義朝の子供の捜索を開始しています。
常磐の腹に生まれた三人がすべて男子であることから、平氏も血まなこで常盤の行方を追っているのですね。
マフィアやCIAやKGBとかの巨大な権力組織に狙われて殺されそうだ、なんて経験は私にはもちろんありませんが、かなりの恐怖です。
それではまた「平治物語」を読んでみましょう。

宇多郡を心ざせば、大和大路を尋つつ、南をさしてあゆめども、ならはぬ旅の朝立に、露とあらそふ我涙、袂も裾もしをれけり。
衣更の十日の事なれば、余寒猶はげしく、嵐にこほる道芝の、氷に足はやぶれつつ、血にそむ衣のすそご故、よその袖さへしをれけり。
はふはふ伏見の叔母を尋ゆきたれども、いにしへ源氏の大将軍の北方などいひし時こそ、睦びも親みしか。
今は謀叛人の妻子となれば、うるさしとや思ひけん、物まうでしたりとて、情なかりしか共、もしやとしばしは待居つつ、待期もすぎて立かへれば、日もはややがて暮にけり。又立よるべき所もなければ、あやしげなる柴の戸にたたずみしに、内より女たち出て、情ありてぞやどしける。

「衣更」は「きさらぎ」と読んで下さい。
間違って「ころもがえ」なんて読んじゃうと、「暑くも寒くもなくって、お出かけにはちょうどいい季節ね」となってしまい、せっかくの舞台設定が霞んでしまいます。
「衣更の十日」、二月ですから、これはもう極寒の真冬です。
四人はそんな厳しい季節の中を、常盤の父の故郷、宇陀郡を目指して道を急ぎます。
前回の文章を読んだ人、覚えてますか?
ここで「宇陀郡」が出てきましたよ!

路傍の凍りついた葉のせいで足は血にまみれ、衣を汚しながら歩む母子の姿に、すれ違う人がそっと袖で涙をぬぐったと、まるで見て来た如くに書いてありますが、とにかく目立たぬように伏見街道を南下し、宇陀郡を目指します。

長い道行の途中で、常盤は伏見にある一軒の家を訪ねました。
「伏見の叔母」とはどのような関係の人かわかりませんが、、出て来た者に、「今日は物まうで(お寺参り)をしていて留守だから」と言われ、叔母に居留守を使われたようです。
それでも常盤は、もしかしたら受け入れてくれるかも知れない、と一縷の望みを持って、夕方まで戸口の前で待ちます。

この「叔母」が義朝の縁戚でないことはわかります。
ならば常盤の母、関屋の関係でしょうか。
ずいぶんな仕打ちですが、すれ違う人がそっと袖で涙をぬぐう場面や、「又立よるべき所もなければ、あやしげなる柴の戸にたたずみしに、内より女たち出て、情ありてぞやどしける」の記述を見れば、やはり遠くの親戚などというものは、近くの他人以上に当てにならない存在です。

史実は不明ですが、作者はこんなイジワルおばはんを登場させて、読者の同情を母子へと向けさせます。
ドラマなんかでもよくあるパターンで、昼メロのあるあるネタのひとつですね。
私がプロデューサーなら、おばはん役は迷わずに沢尻エリカ様をキャスティングします。

あ、それといま思い出したんですけど、「義経」が大河ドラマになった時の常盤役は、稲森いずみさんでした。
義経役はタッキーこと滝沢くんで、「母子なのに、ずいぶん年齢が近いじゃんかよ」と、画面につっ込んでました。
後に常盤は一条長成と再婚するんですが、その長成役が蛭子さんで、稲森さんがホントに可哀想でした。
ドラマではそこまで追わなかったけど、長成との間に子供まで作っちゃうんですよ。
蛭子さんより、私の方がゼッタイに幸せにできると自信を持って言います。
でも薄幸の常盤を強調させるには見事な配役ですね。

もっと前、もうウン十年近くも前だと記憶してますが、やはりNHKで「武蔵坊弁慶」がドラマ化されました。
義経役は川野太郎くん、弁慶は中村吉右衛門さんでした。
この時の常盤は藤村志保さんで、これもまた良いキャスティングでしたよ。
芥川也寸志さんの音楽なんかもう最高で、私は最終回を録画したビデオを永久保存版にしております、もうデッキないけど。
(伊勢三郎役のジョニー大倉さんは、セリフ棒読みで私はコケてしまいました)

でもここは素直に「平治物語」作者の狙いに乗ってあげましょう。
その代わり、ここからの常盤は、稲森いずみさんのイメージで行きましょう。
そういうことで、皆さんよろしくお願いします。

義朝亡き今、朝敵となった常盤を匿うどころか、手のひら返しでこれほどまでの対応をせざるを得ないのは、おばはんの置かれている立場を考えれば仕方ないことでしょうね。
一軒の貧家の軒先で途方に暮れている母子四人は、その家の女性の情けによって夜を明かすことが出来ました。

常盤は大和国宇多郡龍門を目指します。
「宇多郡龍門」は吉野の近くにあり、この周辺は大和源氏が勢力を広げていたところです。
父親の故郷であり、源氏の地でもあるわけですから、「平家にあらずんば人にあらず」の世の中でも、そこまでたどり着けば何とかなると、常盤の稲森いずみさんは考えたのでしょう。
地図を広げて見てみると、京からは直線距離でざっと70~80キロの行程です。

伏見の里に夜をあかし、出ればやがて木幡山、馬はあをばや、かちにても、君を思へばゆくぞとよと、をさなき人にかたりつつ、いざなひゆけば、此人々あゆみつかれて平ふし給ふ。
常葉一人をいだきける上に、ふたりの人の手をひき、腰をおさへて、ゆきなやみたる有様、目もあてられず。
玉鉾の道行人もあやしめば、是も敵のかたざまの人にやと肝をけす所に、旅人も哀に思ひければ、見る者ごとに負ひいだきて助けゆくほどに、なくなく大和國宇多郡龍門といふ所に尋いたり、伯父をたのみてかくれいにけり。

「源氏物語」などと同様、「平治物語」も原本はなく、全巻揃ったものは発見されていません。
すでに失われているのか、それともどこかに死蔵されたままなのかも不明です。
八百年も昔のことなので、たぶん期待は出来ないでしょうが、発見されればもちろん国宝級の価値があります。
現在知ることが出来るのは、一般的に読まれている流布本と、それとは別に「半井本」というもです。
こちらの「半井本」は後世、おそらく南北朝の頃の完成だと思いますが、物語性が強くなっていることがわかります。
例えば同じ場面の記述ですが、ケレン味たっぷりの文章で読者をリードします。

比は二月十日なり。
余寒なほはげしくて、雪はひまなく降にけり。
今若殿をさきにたて、乙若殿の手を引、牛若殿をふところにいだき、二人のをさなき人々には物もかはせず、氷のうへをはだしにてぞあゆませける。
「さむや、つめたや、母御前」
とてなきかなしめば、衣をば少人々にうちきかせて、嵐のどけきかたにたて、我身ははげしきかたにたちて、はぐくみたるぞあはれなる。

「さむや、つめたや、母御前」の表現など、もうこれは戯作仕立です。
泣かせてくれるではありませんか。
「二人のをさなき人々には物もかはせず、氷のうへをはだしにてぞあゆませける」
上の浮世絵は歌川国芳のものですが、描いている途中に可哀想に思ったか、足袋と下駄を履かせています。

やがて母子四人は伯父のいる大和の国、宇多郡にたどり着きます。

平治元年十二月乱、逆父義朝没落之後、母堂常磐女懼公方之責、相随三人幼子沈落大和國方、其時義経二歳、有母之懐抱。

これは義経を説明する「尊卑分脈」の一節なので、簡略とはいえ、常盤は平家方の探索を逃れて確かに大和に入ったことがわかります。

永暦元年正月十七日の暁、常磐三人の子供引具して、大和國宇陀郡きしのをかと云ふ所に、外戚の親しき者あり、是を頼み尋ねて行きけれども、世間の乱るる折節なれば頼まれず、其國のたいとうじと云ふ所に隠れ居たりける。

一方、「義経記」では上のような簡単な記載で済ませていますが、「平治物語」と違うのは、宇陀郡の「きしのおか」という土地に親類を訪ねたものの果たせず、伯父の家ではなく、「たいとうじ」に身を寄せたことになっています。
十日早暁に清水寺を発ち、十七日の明け方に到着。
「たいとうじ」はお寺だろうと想像がつきますが、「たいとう」の文字は不明です。
時間があれば、現在もその名前が残っているか、詳細な地図で調べたいと思います。
(たぶん調べないでしょう、メンドーだから)
とにもかくにも、平氏の目を逃れ、人の情けに助けられながらの一週間の道のりでした。
命からがらの逃避行で、やっと宇多に隠れた常盤母子でしたが、まもなく都からの情報を耳にします。
流布本に戻りましょう。

さる程に清盛は、義朝が子ども常葉が腹に三人ありときいて、
「しかも男子也、尋よ」
とありしかば、常葉が母をめし出してとはれける程に、
「左馬頭殿うたれ給ひぬときこえし日より、子ども引具して、いづちともなくまよひ出侍りぬ。いかでかしり侍らん。」
と申ければ、
「何条、其母をからめ取て尋よ」
とて、六はらへめし出して、様々にいましめとはれけり。
母なくなく申けるは、
「われ六十にあまる身の命、けふあすともしらぬ老の身をおしみて、末はるかなる孫どもの命をば、いかでかうしなひ侍るべきなれば、しりたりとも申まじ。ましてしらぬ行すゑ、何とか申さぶらはん」
とくどきければ、水火のせめにも及べかりしを・・・。

都に残してきた母関屋が、平氏によって拷問を受けています。
「水火のせめ」とは恐ろしい表現です。
火責め水責めに耐えながら、それでも関屋は頑として常盤の居場所を口にしません。

平家では常磐の行方が知れぬので留守の老母に尋ねたが、一向に知らぬと言う。
清盛はさらば先ず老母を搦め取れと、武士を遣って六波羅に引き出し色々に責め問うたが、自分は六十にも余る老いの命、今日明日も知らぬ身を惜しんで生い先長き孫の命を失うはずもなければ、知っていても言いはせぬ、況て知らぬものを何と答えようと、老母は健気にも抗弁するので、水火の責にも及ぼうとする。

上の文章は、日本古文書学体系を確立した黒板勝美の現代語訳です。
関屋お婆ちゃんの覚悟がよくわかります。
現代語訳といっても、これは大正三年に書かれたもので、さらに平易にすると、
「あたしゃもう六十歳にもなる婆さんだし、命なんか惜しくないもんね。だから、もし知ってても、未来のある孫の命が危うくなるようなことは口を閉ざしちゃうし、しゃべるわけないのさ。とにかく知らないんだからどう答えろって言うのさ?」

最近の六十歳は老人ではないけど、当時は完全にお婆さんだったんですね、実際孫もいるし。
私の友人なんか、四十六歳で孫が出来ちゃって、本当にお爺ちゃんになりました。
それにしても、関屋が常盤を産んだのは三十代後半なので、八百年前では、かなり遅い出産といえるでしょう。

常盤は母にも告げず出奔したとありますが、実際はどうだったのでしょう。
宇多に向かったのが、関屋のアドバイスだったことは充分に考えられることです。
しかし仮に関屋が知っていたとしても、知らぬ存ぜぬで通したのは、母ならではの当然の態度だと思います。
それでも、常盤にしてみれば、そんな仕打ちに遭っている母を見殺しには出来ません。

三人の子を連れ、常盤は京へ戻ります。
常盤、人生最大の賭けです。
ただひとつの救いは、十二歳の頼朝が殺されずに、配流にとどめられた一件のみ。
それも池禅尼が、早世した我が子家盛に、頼朝が似ているというだけの理由でした。
根拠の希薄な常盤の賭けは、それほど危険なものだったのです。

常葉宇多郡にて、此よしつたへきゝ、母のためにうきめにあはんはいかゞせん、我故、母の苦を見給ふらんこそかなしけれ、仏神三宝もさこそにくしとおぼしめすらめ、子どもは僻事の人の子なれば、つゐにはうしなはれこそせんずらめ、かくしもはてぬ子ども故、咎なき母の命をうしなはん事のかなしさよと思へば、三人の子ども引具して、都へのぼり、もとのすみかに行てみれば、人もなし。こはいかにとたづぬれば、あたりの人、
「一日六波羅へめされ給しが、いまだ帰り給はず」
とぞこたへける。 

常盤は自らに言い聞かせます。
「私の子供たちは罪人となって殺された義朝の子だから、いずれ同じ運命をたどることは避けられないかも知れない。どうしても逃げ切れない自分と我が子なら、せめて罪のない母を失うことだけは避けなければ。神仏三宝だって母を憎いとは思っていないはずだ」
そう考えて、常盤は三人の子供を引き連れて都へ戻り、母の住む家を訪ねるのですが、そこに母の姿はありません。
ご近所さんに訊けば、関屋は六波羅へ連行されたまま、帰宅していないとのこと。
常盤はいよいよ覚悟を決めます。

常葉まづ御所へ参て申けるは、
「女の心のはかなさは、もし片時も身にそへて見ると、此をさなき者ども引具し、かた田舎に立忍びて侍つるが、妾ゆえ行衛もしらぬ老たる母の六はらへめされて、うきめにあひ給ふとうけ給はれば、余にかなしくて、恥をも忘て参りたり。はやはやをさなき者ともろともに、六はらへつかはさせおはしまして、母のくるしみをやめて給りさぶらへ」
と申せば、女院を始まいらせて、ありとある人々、
「世のつねは、老たる母をばうしなふとも、後世をこそとぶらはめ。をさなき子どもをばいかが殺さんと思ふべきに、こどもをばうしなふとも、母をたすけんと思ふらむ有がたさよ。仏神もさだめてあはれみおぼしめすらん。年来此御所へ参るとは皆人しれり」
とて、尋常に出たたせて、親子四人きよげなる車にて、六はらへぞつかはされける。

常葉は、先ず元の職場である九条院の御所へ赴き、仔細を告げます。
「女心の愚かさゆえに田舎に隠れていましたが、私の行動のために、関係ない母が捕えられていると聞くに及んで、あまりにも悲しく、恥を捨てて出て来ました。どうか一刻も早く私たちを六波羅に送って、母の苦しみを解いて下さい」
常盤の切なる想いを聞いた九条院を始めとする御所側は、
「子供を失うかも知れないのに、母を助けようとは健気で、神仏も哀れと思し召すであろう」
と言って平服に着替えさせ、母子四人を牛車に乗せて六波羅へ送り届けます。

見なれし宮の中も、けふをかぎりと思ふには、涙もさらにとどまらず。
名をのみききし六はらへも近づけば、屠所の羊のあゆみとは、我身一にしられたり。

この時の常盤の心中を察すると胸が痛みます。
常盤の人生でも、一番の危機ではなかったかと思います。
それでも清盛ボスのいる平家CIA本部の六波羅へ自首するわけですから、罪一等を減ぜられる可能性に賭けていたのかも知れません。
「尊卑文脈」や「源平盛衰記」などと同様に、成立年代が下るにしたがって多弁になる「義経記」ではより詳しく、以下の表現になっています。

常磐が母関屋と申す者楊梅町にありけるを、六條より取出し糾問せらるる由聞えければ、常磐是を悲しみ、母の命を助けんとすれば、三人の子供を斬らるべし。
子供を助けんとすれば、老いたる親を失ふべし。
親には子をば如何思ひかへ候べき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受あるとなれば、子供の為にもありなんと思ひ続け、三人の子供引具して、泣く泣く京へぞ出でにける。
六波羅へ此事聞えければ、悪七兵衛景清・監物太郎に仰せつけ、子供具し六波羅へぞ具足す。

母の関屋は楊梅町(どこ?)というところで暮らしていたのでしょう。
「具足す」とあるので、御所からは藤原景清と監物太郎が常盤に付き添ったこともわかります。

ここで、いきなり有名人が二人も登場しちゃいまいました。
話が広がり過ぎるので今回は控えますが、景清は、能と歌舞伎、上方落語で有名な、あの景清です。
監物太郎は一ノ谷の戦いで戦死した弓の名手で、知盛の家人だった人物です。
御所からの連絡で、常盤の身柄確保のために派遣されたのでしょう。
しかしこの部分の記述は「義経記」にしかなく、そのまま鵜呑みにすると危険です。
何より、役者が揃い過ぎています。
(やがて監物太郎は、義経の家来、伊勢三郎に殺されちゃうんです、そう、ジョニー大倉さんにです)
牛車は清盛の居る六波羅の屋敷に入ります。

常葉すでにまいりしかば、伊勢守景綱申次にて、
「女の心のはかなさは、しばしももしや身にそへ侍と、をさなき者あひぐして、かた辺土へ忍びて侍つるに、行へもしらぬ母をめしおかせおはしますと承て、御尋の子どもめしぐして参りさぶらふ。
母をばとくとく助おはしませ」
とかき口説けば、きく人まづ涙をぞながしける。

権勢をほしいままにしていた平氏ですが、そこは人の子、常盤の語る内容は、聞く人たちの涙を誘いました。
常盤に対応した景綱の反応も、悪いものではありませんでした。
おそらく景綱の私情が加えられたのでしょう。
常盤の出頭と、その事情が景綱によって清盛に伝えられます。
そして、いよいよ清盛との対面です。

清盛此よしきき給ひて、先子ども相具して、参たる條神妙なりとて、やがて対面し給へば、二人の子は左右のわきにあり、をさなきをばいだきけり。

景綱の言葉に、清盛もすでに心を動かされていたのでしょう。
しおらしく目の前で頭を下げる常盤を見た清盛には、その姿が「神妙」と映ったようです。
常磐は今若と乙若を両脇に引き寄せ、牛若を抱きながら語ります。
ここからが、平治物語の名場面のひとつ、一番の泣かせ所です。

涙をおさへて申けるは、
「母はもとよりとがなき身にてさぶらへば、御ゆるし侍べし。
子どもの命をたすけ給はんとも申候はず。
一樹のもとにすみ、同じ流をわたるも、此世一の事ならず。
たかきもいやしきも、親の子を思ふならひ、皆さこそさぶらへ。
妾此子どもをうしなひては、かひなき命、片時もたへて有べし共覚えさぶらはねば、まづ妾をうしなはせ給ひて後、子どもをばともかくも御はからひさぶらはば、此世の御なさけ、後の世までの御利益、これに過たる御事さぶらはじ。
ながらへてよるひる歎き悲しまん事も、罪ふかくおぼえ侍」
と口説きければ、六子、母の顔を見あげて、
「なかでよく申させ給へ」
といへば、母は彌涙にぞむせびける。
さしも心つよげにおはしつる清盛も、しきりに涙のすすみければ、をしのごひごひして、さらぬ体にもてなし給へば、
さばかりたけき兵共、みな袖をぞしぼりける。
しのびあへぬ輩は、おほく座席を立けるとかや。

「何も知らぬ我が母に罪はないので、どうかお許し下さい。子供の命を助けていただこうとは申しません。それでも身分に関係なく、子を思う親心に変わりはありません。仏の教えによれば、いずれはあの世で子供と再会できると聞いております」

常盤はまず母の無事であることを嘆願し、子供の命を差し出して見せます。
この辺りの組み立ては常盤の計算でしょうか、相手の同情を誘い、実に巧みです。
そしてなおも続け、次は一転、子供たちの命乞いに移ります。

「子供を失ったらこの世で生きていけません。まず私をを殺して下さい。その上で、子供たちを処分なさいませ。そうなれば、後の世までも御利益があることでしょう。私の命だけが助かり、日々を嘆き暮らすなど、悲しくも罪深いことです」
簡単にいえば、「子供を殺すなら私を殺してからにしろ、さあ殺せ」と迫っているわけです。

流れる涙も拭わずに語る常盤の、ここが運命の分岐点です。
すると、今若が言います。
「母上、泣かずによくお願い申し上げましょう」
横にかしこまる今若は母を励まします。
母常盤も涙にむせびます。
アッパレ今若。
義朝七番目の子供とはいえ、上の六人の兄たちとは母も違えばもちろん会ったこともないのですから、義朝・常盤の長男としての自覚から出た言葉でしょう。
その健気さに、さしもの清盛も平静を装うのですが、目頭を熱くします。
居並んだ人たちも袖を濡らし、「なんとも哀れなことじゃのう」と、中には退席する人さえいました。

去ほどに母はゆるされけるに、
「此孫どもをうしなひて、あすをもしらぬ老の身の、たすかりてもなにかせん。うたての常葉や、此老の命を助けんとてや、あの子どもをば何しに具してまいりけん。
四人の子孫の事を思はんより、たゞ老の身をまづうしなはせ給へ」
とて、なきかなしみけるもことはり也。
あし音のあららかなるをも、今やうしなはるゝ使なるらんと肝をけし、こはだかに物いふをも、はや其事よとたましゐをうしなひけるに、大弐のたまひけるは、
「義朝が子共の事、清盛がわたくしのはからひにあらず、君の仰をうけ給はて、とりおこなふ計也。うかゞひ申て、朝儀にこそしたがはめ」
との給へば、一門の人々并に侍ども、
「いかに、か様に御心よはき仰にて候やらん。此三四人成長候はんは、只今の事なるべし。
君達の御ため、末の世おそろしくこそ候へ」
と申せば、清盛、
「誰もさこそ思へども、おとなしき頼朝を、池殿の仰によて、助をくうへは、兄をばたすけ、おさなきを誅すべきならねば、力なき次第也」
との給けり。
常葉は、子どもの命けふにのぶるも、ひとへに観音の御はからひと思ひければ、弥信心をいたして、普門品をよみ奉り、子どもには名号をぞとなへさせける。
かくて露の命もきえやらで、春もなかばくれけるに、兵衛佐殿は伊豆国へながさるときこえしかば、我子どもはいづくへかながされんと、肝をけしふししづみけるが、おさなければとて、さしをかれて、流罪の儀にも及ばざりけり。

「大弐」とは清盛を指します。
母には無罪放免の沙汰が下されました。
しかし関屋お婆ちゃんは常盤に言います。
「常盤よ、あんたバカだねえ。孫たちの命を危険にさらしてさっ!」
てなことを言いつつ、関屋は歎き悲しむのです。
はじめはドカドカと足音も荒く現れた清盛も、美しい常盤の涙にほだされてお婆ちゃんを許しちゃったんですね。
わかりますよ清盛さん。
男はいつだって女の涙には弱いのです。
稲森さんに目の前で泣かれれば、私だって間違いなく許しちゃいます。

さて、問題は子供たちの処遇です。
「義朝の子供たちのことは、ボク個人の考えで決めるんじゃなく、ここはひとつ、上皇(大天狗の後白河、もしくは二条天皇)の意見を聞いてさ、その決定に従おうと思うんだけど、どうだろうか、皆の衆?」
清盛は大声で周りに問い掛けました。
しかし、一門の公達連中は冷静です。
「どうしてそんな弱気かなあ、ボス。コイツらが成長すれば、わしらにとってスッゴク恐ろしい存在になりますぜ!」
ところが清盛くん、常盤の美貌にコロッとしてしまって、実はもう、肝は決めていたんですね。
「みんなそう思うだろうけどさ、池のおばちゃんの言う通りにして、ボクは頼朝を助けちゃったんだよ。その頼朝より年少のこの子たちを殺すわけにはいかないだろうさ」
この言葉で、すべての裁きが終わりました。

流罪になった頼朝は十二歳。
その頼朝よりも幼い子供たちには流罪もかわいそうです。
もちろん常盤は大喜び。
全身の力が抜けるほどホッとしたことでしょう。
子供たちと共に、京の町中で暮らすことが許されたのです。
内心ではガッツポーズしてたかも知れません。
美人に生まれたことを、これほど感謝したかはわからないけれど、「これすべて観音様のお計らい」と、母子でお経を唱えたのでありましたとさ。
めでたしめでたし。

清水寺の音羽の滝は、観音の力そのものを表しているとして尊ばれて来ました。
清水寺の名前の由来も、この清水からきています。
さっそく母子たちで清水寺に詣でたに違いありません。
もちそん関屋も一緒だったでしょう。
しかしこの時、清盛の胸の奥ではある感情が芽生えていました。
それが形になるのに時間はかかりません。
常盤、今若、乙若、牛若の四人には、更に過酷な運命が用意されていたのです。


さて困りました。
今回でお話を完結させるつもりで書いて来ましたが、終わりません!
例えて言うならば、食事を始めたものの、なんせチョー腹ペコだったから、夢中でガツガツ食べて、気付いたらご飯は完食したものの、オカズがまだ大量に残ってた状態です。
違うかな?

いずれにせよ、明らかに私の計算違いや段取りミスでありまして、面目ないです。
反省だけなら私でも出来るので、謙虚に反省します。
よって、次回も常盤の話題です。
(なるべく短く終わらせますからね)
そろそろ清水さんを離れて次の場所へ移動したいのですが、いつになることやら…。
ということで、

「常磐御前 其の参」へ続きます。

追記
《母の関屋は楊梅町(どこ?)というところで暮らしていたのでしょう》
楊梅町は存在しませんが、京都市内には楊梅通があります。
堀川通と烏丸通に挟まれた五条通のすぐ南側で、現在は八百屋町という所でして、路地のように細い一方通行の道路です。
偶然でしょうが、すぐ近くに蛭子町があります。

グーグルの地図を見ていたら、伏見街道?沿いに「常盤町」を見つけました。
常盤御前さんと関係あるのかな?
楊梅通から六波羅が近いのも確認しました。清水寺までほぼ東西に一直線なんですね。

楊梅と書いて「やまもも」と読むんですね。勉強になります。
こんなこっちゃイカンと書棚をひっくり返して他にも調べたところ、常盤が隠棲したのは宇陀郡(奈良県吉野町)の「牧の岸岡」ということも判明しましたし、「たいとうじ」が「大東寺」であることも確認しました。横着せず、キッチリ書かねばと反省しております。

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