一葉忌 其の壱

2007年11月23日


紫式部、和泉式部、赤染衛門などの女流歌人を輩出した平安中期から約九百後の明治時代に、彼女たちをも凌ぐ一人の才女が誕生し、そして早逝した。
某日、その終焉の地を訪ねた。

樋口一葉、享年24
若すぎる死を悼んで訪れたのは文京区西片一丁目。
当時は丸山福山町といった。

商業ビルの片隅に石碑と説明板があり、そこにはこう記してある。


    樋口一葉終焉の地

 一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。明治5年(1872)東京府(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、24年の短い生涯を閉じた。文京区在住は十余年をかぞえる。
 明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。
 一葉はこの家を懐かしみ、“桜木の宿”と呼んだ。
 父の死後戸主となった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。作家半井桃水に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。
 終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。守喜という鰻屋の離れで、家は六畳二間と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、“奇跡の二年”と呼ばれている。「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。



「奇跡の二年」という表現は初めて聞いた。
一般的には「奇跡の一年」または「奇跡の14ヶ月」という。

平塚らいてう書による文学碑には、明治27年4月28日と5月1日の一葉の日記が次のように刻まれている。


花ははやく咲て散がたはやかりけり あやにくに雨風のみつゞきたるに かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参 いよいよ転居の事定まる 家は本郷の丸山福山町とて阿部邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり 守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて さのみふるくもあらず 家賃は月三円也 たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ


奇跡の14ヶ月の始まりは名作「大つごもり」だが、主人公のお峯を作者の分身として読んでしまうせいか胸がつまる。


拜みまする神さま佛さま、私は惡人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰をお當てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿躰なけれど此金ぬすまして下されと、


物語は両親を亡くした後、温かく育ててくれた伯父家族への思いが主家での行為に向かわざるを得ないのだが、このお峯の心の叫びは貧困にもがく一葉にしか描くことはできない。
この部分から大方の結末は予感され、実際にその通りに物語は進行するのだが、評論などでは、「後の事しりたや」で結ぶ安易さを指摘されることが多い。
しかしそこには解決され得ない時代的背景が否応なしに立ちふさがっていたことを踏まえなければならない。


六づかしき主を持つ身の給金を先きに貰へば此身は賣りたるも同じ事、


と書く一葉の脳裏に焼き付いていたのは、菊坂から転居した下谷区竜泉寺町で、吉原の遊女たちとの交流の中から生まれたものだ。
一面識もない見ず知らずの男に借金を申し込みに出向き、身を売る瀬戸際にまで追い詰められた一葉の体験も重なり、それらが奇跡の14ヶ月へと収束する。
「たけくらべ」や「十三夜」などの結末には救いようがなく、余韻は闇よりも濃く深い。
他の作品にも共通することだが、何の解決や喜びも見い出すことなく、ただ時代や貧困に流されて行くしか術のない登場人物たちはひたすらに哀しい。
その深さは、ここ丸山福山町に転居してわずか一年余りで生涯を終えてしまう一葉への憐憫の情か。

白山通りに面した一葉終の棲家を後に、一葉の短い人生をさかのぼるべく菊坂に向かう。

西片一丁目の交差点を東へ100メートルあまりで菊坂下の交差点に出る。

交差点を写真に収め、振り返ると、本郷通りに向かって平凡な街並みの菊坂通りが伸びる。

菊坂から一本南の細い道に入り、わずかに歩くと一葉の旧居跡がある。
説はいろいろあるようだが、当初は左側の家を新居と定め、後に向いの家へ移ったとされている。

極貧の中で一葉は17歳から22歳まで、一家の戸主として57歳の母と15歳の妹の面倒を見ていた。
収入は針仕事や洗い張り。
しかし一葉は近視のために作業が遅く、それらの仕事は主に母や妹が分担していたという。

路地を奥へ進む。
今も現役の井戸があるが、この井戸の真向かいに暮らしていたとの説もある。
明治期の古地図で確認すれば正確にわかりそうだが、探し出すのが面倒なので、当時、本郷区菊坂町69番地から西側の70番地に転居した、それは妹の「くに」がもう一間欲しいと願ったからだということだけを書いてお茶を濁す。

二年前に訪れた折、同じ位置からの写真を載せる。
比べればおわかりだろうが、井戸の奥にあった「樋口一葉旧居跡」の案内板が撤去されている。
文学散歩に訪れる人が多く、当地で生活する住民の方たちへの迷惑に配慮したものだろうか。

2008年春ごろのことだが、民放テレビ局の深夜帯で「本郷」の文字を新聞のラテ欄に見つけたので観たことがある。
森本レオ、金髪ブタ野郎の師匠、そして半田ナントカ(若手の俳優か)の三人が、この井戸を前にはしゃいでいる場面が映っていた。
井戸水を汲み、持参したガスコンロにナベを乗せてお湯を沸かしている。
沸騰したところで厚かましくも井戸の前の家に声を掛けてご婦人からカップを借り、お茶だかコーヒーだかを飲み始めた。
しかしそれだけでは終わらず、次はこれも持参していたチキンラーメンを作り、井戸を囲みながら三人で分け合って食べていた。
ちゃんと箸と丼も持参して来ている。
この場所で非常識な振る舞いをする三人では絶対ないはずなのに、どうしてそんな稚戯の演出を断らなかったのかと、残念な思いでテレビを消した。
役者や噺家に、一葉ゆかりの場所でインスタントラーメンを食べさせることに、いったいどれだけの意味があるのだろう。
以前の地図やガイドブックでは当たり前に載っていた「樋口一葉旧居跡」の表記も、最近では削除されているケースが多い。

この場所は何度も訪れているが、いつも足音や気配を消してすぐに立ち去るよう心掛けている。
普段はとても静かな場所である。
だがグループで訪ねる人たちは周囲に配慮することなく、いまだにガヤガヤと騒がしい。
案内板が復活する日は遠いか。

明治25年元日の日記に20歳の一葉は記す。


まつ人、をしむ人、喜こぶ人、憂ふる人、さまざまなるべき新玉のとし立返りぬ。天のとのあくる光りにことし明治廿五といふとしの姿あきらかにみえ初て、心さへにあらたまりたる様なるもをかし。人よりはやくといそぎ起て、若水くみ上るもうれし。よべは雨いたくふりて、風さへにすさまじかりしを、名残なく晴渡りて大空の色のみどりなるに、いかのぽりの声のいさましきも、つくばねののどかなる声もまじりて聞え渡れる、何となくうれし。きのふより気候とみにことなりて、気味わろきまであたゝけし。地震のこと心にかゝればなれど、埋火のもと遠くはなれて、梅花の風軒ばにゆるく吹く。「か計の新年まだせしことなし」とて人々よろこぶ。いつも雪の様にみゆる霜の、今朝し置たりといふ色だになければ、

いか計のどかに立し年ならむ霜だにみえぬ朝ぼらけかな

とおもはれぬ。雑煮いわひ、とそくみなど例年の通りなり。化粧などしてさて書初めをなす。国子は 「日出山」をしたゝめたり。おのれのは、

くれ竹のおもふふしなく親も子ものびたゝんとしの始とも哉

など様のことをしたゝむ。
年始八組。賀状一二通。宝船売り。



貧しさの中でも心は豊かだった。
汲んだ若水は神棚に供えたのだろう。
それは当然この井戸から汲み上げたものと考えるのが自然だ。
今のようなポンプ式ではなく、おそらく釣瓶だったと想像する。

凧揚げや羽根突きに興じる子供たちや宝船売りの声を聞き、屠蘇を酌んで雑煮を食べ書き初めに新年を寿ぐ一葉。
負けん気の強い一葉が、今年こそ絶対に浮かび上がるのだと決意を新たにしたことは想像に難くない。

階段を上がり、逆位置から写真を撮ってすぐに退散する。

菊坂通りに戻り、一葉ゆかりの伊勢屋質店に向かう。
この伊勢屋は昭和57年に廃業したが、一葉の命日である11月23日には内部を一般公開してくださっている。


一葉の暮らしは困窮の度を深めていく。
この年の5月2日の日記(蓬生日記)には次の記載がある。


母君と共に摩利支天もうでに趣く。家主西本来る。かきを結ひ直さんことのおくれたるを言ひになり。此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。

長持に春かくれ行くころもがへ

とかや、誰やらが句を聞し事あり。其風流には似ざるもをかし。

蔵のうちにはるかくれ行くころもがへ



井原西鶴の句に、

長持に春ぞくれ行く更衣

があるが、この西鶴の句を受けての自嘲だろう。
貧困に負けまいと歯を食いしばりながらの暮らしが続く中で、諦観とも取れるパスティーシュの句は胸に重い。


やがて吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現・台東区竜泉一丁目)で雑貨店を開いて駄菓子などを商うようになったが、それでも伊勢屋通いは続いた。
そして丸山福山町へ転出後2年、24歳での早逝。
やっと筆一本で生計の目途がおぼろに見えて来た矢先の死は哀切極まりない。

新聞で一葉逝去を知った伊勢屋の主人は、
「あの女性が一葉であったのか」
と初めて知り、香典を包んで弔問に訪れたのは有名な話だ。

ちなみに明治29年11月26日付東京朝日新聞では、「一葉女史逝く」の見出しで訃報を簡潔に伝えている。


女流の小説家として逍勁の筆重厚の想を以て名聲文壇に嘖々たりし一葉女史樋口夏子 肺患に罹りをりしが遂にこれが爲め去る二十三日午前十一時を以て簀を易へたり享年僅かに二十有五


肺結核の症状が進み、すでに8月には、医者から「絶望」との診断を受けていた。

葬儀は妹の「くに」によって内輪だけで行われた。
葬儀費用が工面できなかったからだとも伝えられている。

自身の死期が迫っていることを知った一葉は、「日記は必ず処分するように」と妹に申し渡してあったが、くには姉の願いに反して一葉死後もこれを保存した。
日記だけではなく、四千首にも及ぶ和歌も処分を免れた。
この時のくにの判断によって、後世の一葉研究が進んだことは特筆して置かなければいけない。

菊坂周辺の散歩を続ける。
本郷が厳密に下町かは措くとして、心なごむ懐かしい家並の風景が、いたるところに満ちている。

三階建ての木造家屋などもあり、この界隈ではまだまだ昭和は健在だ。

一葉旧居跡のすぐ近くには文人墨客の史跡が多くあり、思わぬところで思考の転換を強いられる。
有名どころでは金田一京助・春彦旧宅、坪内逍遥旧宅の春廼屋跡、啄木が下宿した旧蓋平館(太栄館)や啄木旧居喜之床跡(漱石の「吾輩は猫である」にも登場する床屋。啄木はこの二階にいたという)、徳田秋声旧宅、夏目漱石旧居跡などがある。

本郷通り入口近くにある「菊坂」の表示板。
菊坂下交差点からは1キロもない。
本郷通りは国道17号線であり、中山道でもある。

表示板の裏。
やはり菊坂といえば一葉なのだろう。

本郷通りに出る。
このルノアールはかつて燕楽軒という西洋料理店があった場所で、20歳の宇野千代がウエイトレスをしていたことでも知られている。
宇野千代はここで今東光と出会い、その関係から後に東郷青児と結婚している。
一葉を追っているので宇野千代については割愛するが、彼女は山口県岩国の出身で、一葉が逝って一年後の1897年11月28日に生まれている。


不幸な一葉ばかり綴って来たが、次はしあわせだった幼少期の一葉に会いに行くことにしよう。

「一葉忌 其の弐」へ続く。


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