おバカさん

2007年3月26日



先日の某TV局のニュース。
「仁徳天皇陵」の世界遺産登録を目指す大阪府堺市が、景観条例を変更して陵墓近くに高層マンション建設を認可、だがその場所には活断層が…。
との内容だった。
安全無視の行政と企業の関係を指弾した珍しくもない報道だ。
しかし「仁徳天皇陵」と連呼する神経には苦笑を禁じ得なかった。
確かに我々世代はそう習った。
だが現在は確実に仁徳の陵墓ではないと証明されつつあり、最近の教科書には「大山(仙)古墳」、または 「伝仁徳陵」と明記してある。
これはすでに一般常識と言ってもいいだろう。
お陰でマンション建設認可の報道内容の信憑性までが一瞬で失せた。
検証しないメディアはどこまでもおバカさんだ。

以前よりやや柔軟になったとはいえ、相変わらず宮内庁のガードは固く、全国に数多くある陵墓、または陵墓参考地への立ち入り調査は固く禁じられている。
遺跡や古墳ではなく、皇室の私的な墓所である、とのスタンスだからだ。
そのため、発掘などの検証ではなく、ただ単に立ち入って地勢を観察することすら許されていないのが現状だ。
それでも古墳の様式、以前に出土した埴輪片の文様による分類や年代測定、あるいは日本書紀や古事記の精査などから、大山古墳の出現と仁徳の御世には大きな年代的隔たりがあるとわかっている。
明確に「仁徳陵」と決めつけている「大山古墳」でさえこれだから、全国に50ヶ所近くある陵墓参考地などは、指定した時点ですでに自信がなかったのだろう。

また、「仁徳天皇」という謚号も「仁徳」以後に登場した贈り名であって、それ以前の陵墓に謚号を付与することは常識的に考えても馴染まないし、また天皇制の成立過程を踏まえれば「陵」の文字を充てることも同様である。
被葬者が確実とされる野口王墓(天武・持統合葬陵)を始めとするいくつかの墳墓を除いて、宮内庁の指定管理する古墳には再検討が必要だろう。
(余談だが、持統は皇族で初めて火葬されたといわれている)
そもそも古代の天皇陵を、千年以上も下った江戸時代に半ば強引に決定し、それを現在まで検証することなく慢然と受け入れ続けている宮内庁の姿勢にこそ問題がある。
皇族ではない古代の豪族などを、誤って祀ってしまっている可能性も大きい。
天皇ご自身の生の声を聞いてみたいところだ。

一部の特殊な集団を除いて、初代天皇とされる神武(日本書紀では神日本磐余彦-カンヤマトイワレヒコ-、古事記では神倭伊波礼琵古)の実在を信じる人は現代にはいないだろう。
これは学会の大勢であり、すでに通説となっている。
日本書紀や古事記を熟読検証したことのない人も、その一部の集団へ付和雷同的に同調しているようだが、神武とは第十代の崇神や十五代応神の分身であり、神話に仮託された架空の天皇であるという論が大勢を占めている。
(神武以下、いわゆる「欠史八代」とされている綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、そして第九代開化天皇までも同様。かつて歴史を勉強していた時期は、戦前の教育を受けた人たちと同じく、『じんむすいぜーあんねーいとく、こーしょーこーあんこーれーこーげんかいか』などと寿限無のようにして覚えたものだ。また、『じこくぞーちょーこーもくたもん』と、四天王などもわらべ唄のように覚えた。しかし実生活では何の役にも立たない。経済とか物理化学を勉強しておけば日々の生活も安泰だったろうに。我が人生、明らかに間違ってしまった…)

神武陵の場所も定まらず、現在は第二代綏靖天皇の墳丘とされている橿原市四条町の塚山古墳を神武陵に充てていた時期もあった。
今の場所はミサンザイ古墳といわれ、、実はもともと古墳などではなく、ただの自然丘だったともいわれている。
橿原神宮もいくつかの墳墓を破壊して造営したとも聞いた。
しかし神前に立てば厳かな雰囲気に包まれて自然に頭を垂れ、無心に柏手を打つ自分がいる。
神とは形而上の存在である。
だから神は各々の人の心に宿る「概念」である。

神武は日本書紀では127歳、古事記では137歳で崩御したことになっている。
ちなみに開化までの寿命を以下に列記する。
綏靖84歳、安寧57歳、懿徳77歳、孝昭114歳、孝安137歳、孝霊128歳、孝元116歳、開化115歳である。
(すべて日本書紀からの計算)
架空の人たちならではの、ギネス級の長命揃いである。
神武天皇は紀元前660年1月1日に橿原宮で即位したとされている。
まだ文字もない縄文晩期である。
現在の暦に直すと2月11日。
以前は紀元節といったが、お馴染みの建国記念日である。
推古が斑鳩に都を置いたのが西暦601年の辛酉年。
辛酉年は60年に一度巡って来るから単純に60年を21倍し、この年から1260年もさかのぼった年を神武の即位の年に決めてしまった。
なぜ21倍してしまったか勉強不足で知らないが、たとえば600年前ならば西暦元年。
でもキリスト生誕とは関係ないし、当時の権力者は少しでも古い時代に定めることが権威付けになると考えたからなのだろう。
架空であるにしても、歴代天皇の寿命を延ばさざるを得なかった理由がここにある。
皇紀2600年に当たった昭和15年は紀元前660年から数えて2600年目。
不幸な時代背景もあったのだが、盛大な祝賀行事が行なわれた。
(まだ生まれてないから書物や映像などからの見聞です)
だから建国記念日ハンターイ! などとは言わない。休日になるのは無条件にウレシイもんね。

私の好きな古墳に、奈良県桜井市の箸墓古墳がある。
前方後円墳としては古墳時代初期に造営されたもので、考霊天皇の娘、倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の陵墓とされている。
日本書紀や古事記の年代の嘘を考古学や歴史学的見地から正すと、実年代があぶり出されて来る。
すると驚くことに、箸墓の造営は邪馬台国の時代に限りなく近づいて来るから面白い。
卑弥呼の死が三世紀前半(248年の説もある)、そして箸墓の造営が三世紀後半。
この古墳を卑弥呼の墓とする説も、邪馬台国機内説を支持する人の中には多い。
だが惜しいことに、あと約半世紀の年代差がどうしても埋まらない。
私も邪馬台国機内説を採る一人だが、この古墳の被葬者は卑弥呼の後継者で親族の臺與(とよ)、もしくは台与(いよ)ではないかと考えている。

西暦247年、中国の魏志には、
「倭女王、載斯・烏越等を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を報告。少帝、塞の曹掾史張政等を派遣し、檄文をもって倭人に告諭す。(中略) この間、卑弥呼死す。倭国再び乱れ、卑弥呼の宗女臺與を擁立。魏使張政等、臺與に告諭。臺與、大夫掖邪狗等を遣わして朝献す」
また、266年の「晋書」及び「日本書紀」には、
「倭女王(臺與か?)西晋に朝貢す」
とある。
詳しく書けば、臺與は男女の生口(奴隷か?)30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を魏に貢いでいる。
(真珠や勾玉や絹織物か?)
王権を受け継いだ臺與は当時13歳。
卑弥呼亡き後に男子を王に立てたが人々はこれに服さず内乱状態となり、およそ1,000人が死んだ。
しかし代わった臺與によってようやく平定されたとある。
臺與の没年齢は不明だが、おおよそこれで箸墓造営の時期と見事に重なり合うのである。
一帯は広大な規模を誇る纒向遺跡であり、この遺跡を邪馬台国に比定する蓋然性もごく自然に生まれる。
神に仕える百襲媛と、神の神託を受けるシャーマンだった卑弥呼と臺與。
ここにも類似点がある。

箸墓には何度も通った。
もちろん宮内庁管理の陵墓で立ち入ることは叶わないが、測量地図を見ると墳丘に何本かの踏み跡が確認できる。
おそらく以前は盗掘も行なわれたに違いない。
それでも発掘によってもしも副葬品の中から「親魏倭王」の金印でも出土されれば、纒向遺跡が邪馬台国であった最有力の証左となる。
動産である金印は人の手によって伝世される運命にあるものだが、これによって邪馬台国論争はほぼ決着する。
箸墓に埋葬されているのは臺與ではないだろうか…。
全長約280メートル、後円部径155メートル、前方部長125メートルに及ぶ巨大な前方後円墳の外周を歩きながら、いつもこんなことを考えていた。


「日本書紀」崇神天皇の条に、いわゆる「三輪山伝説」と呼ばれている説話があるので、わかりやすく要約する。

倭迹迹日百襲媛命は三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ)の妻となった。
しかし旦那の大物主は夜にしかやって来ない。
(当時は通い婚だったのだろう)
『お前さんはどーして夜にしか来いへんの? 朝までいればいいやん!』
(当然関西弁だったに違いない。でも正しい関西弁がわからないので勘弁を)
『そう言われればそうやな』
大物主は答えた。
『そりゃ嬉しいわあ』
『ほな、朝になったらお前の櫛箱の中に入ってるから、驚かんといてな』
百襲媛は朝になるのを待って櫛箱を開けた。
すると箱の中には一匹の小さな蛇がいた。
驚いた百襲媛は思わず叫び声を上げてしまった。
怒ったのは大物主。
とたんに人の姿に戻って言った。
『驚かんと約束したやんか。よくもわしに恥かかしてくれたな』
大物主はあっという間に三輪山に飛んで帰って消えた。
百襲媛はショックのあまり、その場に座り込んだ。
ところが運悪く陰部に箸が突き刺さり、そのまま息絶えてしまった。
そして葬られた墓を誰ともなく「箸墓」と呼ぶようになった。
しかし箸が使われるようになったのはずっと後の時代で、古墳を造営した集団である土師氏の墓だから当時は「土師墓」と呼ばれていたのではないかという説もある。
今でこそ古墳は草木に覆われているが、本来の姿は全面が葺石で固められた造りだった。
日本書紀には、この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったとある。
大坂山の石を人々が手渡しで運んだとも書かれている。
ここでいう大坂山とは二上山のことだろう。

さて、話を仁徳に戻そう。
あまりにも「仁徳天皇陵」の名が浸透してしまっているので混乱しそうだが、私は履中陵の百舌鳥陵山(もずみささぎやま)古墳が本当の仁徳陵ではないかと考えている。
逆に履中陵こそ大山古墳ではないか。
(反正陵の可能性もある)
さまざまな要素を加味しての結論だが、調査が許されない現状ではこれ以上の推測は無意味だ。
古代史や考古学とは物理的な事実の積み重ねである。
最近は陵墓補修の際に、小人数だが学者による地勢の観察が許されるようになった。
宮内庁の姿勢も変わり始めていると信じよう。
何より大切なのは、貴重な古代遺産を破壊や劣化させないことにある。
高松塚古墳の轍を踏まないことに尽きる。

話はここで終わりにしようとしたが、肝心なことを書き忘れていた。
メディアの思い上がりと傲慢さには本当にあきれる。
「仁徳」の話ではなく、まったく別の話題である。
先日のことだ。
関東を低気圧が襲い、風雨で大荒れの朝だった。
関東ローカルなのだろうが、大抵の局は何かあると必ず、JR新宿駅南口の改札前から中継を行なう。
それは構わないのだが、この日、甲州街道を走っていると大渋滞に巻き込まれた。
普段から渋滞する場所ではあるが、都心に向けての上り線が特にひどかった。
それでも我慢して少しずつ進むと、南口前の陸橋上で3車線の道路が2車線しか通行できなくなっている。
その原因は駐車車両、停まっているのは某TV局の中継車だった。
「我こそが正義」
のような報道ばかりするが、実態は想像力の無いこの程度の知能だ。
怒りを通り越して脱力感に襲われた。
やはりメディアは果てしなくおバカさんだ。

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