一葉忌 其の弐

2007年11月23日

「ちい散歩」の地井さんはすぐにブランコに乗ったり買い食いをしたりするが、私は菊坂コロッケやプティフのカレーや三原堂の大学最中や、ましてや壺屋総本店の壺々最中などには目もくれずに次の目的地を目指す。
あんこは好きだが、最中は皮が上アゴにくっついてしまうので面白くないのである。

国道17号線、本郷通り赤門前。
かねやすのある本郷三丁目を中心に、この赤門辺りまでを「見返り坂」という。
中山道でもあるので、江戸時代の旅人は見送りの人たちとの離別を惜しんで何度も振り返ったのだろう。
吉原大門には「きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな見返れば意見か柳顔をうち」の川柳で知られる見返り柳があるが、見返る仕草は同じでも、それとは大きく意味合いが違う。
坂とも気付かない緩い勾配である。

赤門の中はご存知東京大学。
かつての加賀百万石、加賀藩前田家上屋敷である。
正式には「加賀屋敷御守殿門」という。
1827年、第13代藩主前田斉泰が、徳川家斉の第21女の溶姫を迎えるために造らせた特別な門だ。
今は国の重要文化財であるが、かつては、火事などで焼失したら二度と再建を許されない決まりだったらしい。
そのため、この門を護るためだけに加賀藩お抱えの火消し鳶、通称加賀鳶が常駐していた。
もちろん一般人の通行など絶対に許されるわけもなかった。
それほど特別な存在だった。
しかし私の関心はそんなところにはなく、家斉の第21女! という事実に驚き、子沢山とは知っていたが、
「よくがんばりました」
と、その労を称えてねぎらうばかりである。

気になったので家斉をWikipediaで見たら、さらに驚いた。
驚きついでにコピペしてみた。


特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子を儲け、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。また、家斉にはそのほかにも妾がいたとも伝えられており、一説には40人とも言われる。御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。
一方で、下記のように、子女の多くは大藩の大名に関係することから、血縁関係による大名統制を行なっていたとも考えられる。また、徳川宗尹以来の一橋家の養子戦略の延長でもある。また、将軍の子を迎える大名に、それに伴う儀礼などによる経済的負担を課していたとも考えられる。ただし、家斉の娘を娶った鍋島直正や毛利斉広の養子である毛利敬親が倒幕に関係したことからすると、血縁関係による大名統制は失敗に終わったとも言えるだろう。 
家斉の時代は、最も大奥が活用された時代である。
たくさんの子女に恵まれたものの、実際に成年まで生きたのは半分だったといわれる。その上、長命の子息が他家に流出してしまう。

子女と、その母
正室:近衛寔子(広大院) - 島津重豪の娘、近衛経熙の養女
五男:敦之助(1796-1799) 清水徳川家当主・徳川重好の養子
側室:お万の方(勢真院) - 平塚為喜の娘
長女:淑姫(1789-1817) 尾張徳川家当主・徳川斉朝に嫁ぐ
次女:瓊岸院(1790)
長男:竹千代(1792-1793)
三女:綾姫(1795-1797) 仙台藩主・伊達周宗と婚約
側室:お楽の方(香琳院) - 押田勝敏の娘
次男:家慶(1793-1853) 第12代将軍
側室:お梅の方(真性院) - 水野忠芳の娘
三男:端正院(1794)
側室:お歌の方(宝池院) - 水野忠直の娘
四男:敬之助(1795-1797) 尾張徳川家当主徳川宗睦の養子
六男:豊三郎(1798)
六女:五百姫(1799-1800)
九女:舒姫(1802-1803)
側室:お志賀の方(慧明院) - 能勢頼能の娘
四女:総姫(1796-1797)
側室:お里尾の方(超操院) - 朝比奈矩春の娘
五女:格姫(1798-1799)
側室:お登勢の方(妙操院) - 梶勝俊の娘
七女:峰姫(1800-1853) 水戸徳川家当主・徳川斉脩に嫁ぐ
七男:斉順(1801-1846) 清水徳川家、後に紀州徳川家当主・徳川治寶の養子
十女:寿姫(1803-1804)
十二女:晴姫(1805-1807)
側室:お蝶の方(速成院) - 曽根重辰の娘
八女:亨姫(1801-1802)
八男:時之助(1803-1805)
九男:虎千代(1806-1810) 紀州徳川家・徳川治寶の養子
十男:友松(1809-1813)
十二男:斉荘(1810-1845) 田安徳川家・徳川斉匡の養子、後に尾張徳川家当主・徳川斉温の養子
十九女:和姫(1813-1830) 長州藩主・毛利斉広に嫁ぐ
十六男:久五郎(1815-1817)
側室:お美尾の方(芳心院) - 木村重勇の娘
十一女:浅姫(1803-1843) 福井藩主松平斉承に嫁ぐ
側室:お屋知の方(清昇院) - 大岩盛英の娘、諸星信邦の養女
十三女:高姫(1806)
十五女:元姫(1808-1821) 会津藩・松平容衆に嫁ぐ
側室:お袖の方(本性院) - 吉江政福の娘
十四女:岸姫(1807-1811)
十六女:文姫(1809-1837) 高松藩主・松平頼胤に嫁ぐ
十七女:艶姫(1811)
二十女:孝姫(1813-1814)
十八男:陽七郎(1818-1821)
二十一男:斉彊(1820-1849) 清水徳川家、後に紀州徳川家当主・徳川斉順の養子
二十四男:富八郎(1822-1823)
側室:お八重の方(皆春院) - 牧野忠克の娘、土屋知光の養女
十一男:斉明(1809-1827) 清水徳川家の養子
十八女:盛姫(1811-1846) 佐賀藩主・鍋島直正に嫁ぐ
十三男:斉衆(1812-1826) 鳥取藩主・池田斉稷の養子
十五男:斉民(1814-1891) 津山藩主・松平斉孝の養子
十七男:信之進(1817)
二十五女:喜代姫(1818-1868) 姫路藩主・酒井忠学に嫁ぐ
二十男:斉良(1819-1839) 浜田藩主・松平斉厚の養子
二十三男:斉裕(1821-1868) 徳島藩主・蜂須賀斉昌の養子
側室:お美代の方(専行院) - 内藤就相の娘、中野清茂の養女
二十一女:溶姫(1813-1868) 加賀藩主・前田斉泰に嫁ぐ
二十三女:仲姫(1815-1817)
二十四女:末姫(1817-1872) 広島藩主・浅野斉粛に嫁ぐ
側室:お八百の方(智照院) - 阿部正芳の娘
十四男:奥五郎(1813-1814)
側室:お以登の方(本輪院) - 高木広允の娘
二十二女:琴姫(1815-1816)
二十六女:永姫(1819-1875) 一橋徳川家当主・徳川斉位に嫁ぐ
二十二男:斉善(1820-1838) 福井藩主・松平斉承の養子
二十五男:斉省(1823-1841) 川越藩主・松平斉典の養子
二十六男:斉宣(1825-1844) 明石藩主・松平斉韶の養子
側室:お瑠璃の方(青蓮院) - 戸田政方の娘
十九男:斉温(1819-1839) 尾張徳川家当主・徳川斉朝養子
二十七女:泰姫(1827-1843) 鳥取藩主・池田斉訓に嫁ぐ
猶子
尊超入道親王(1802-1852)(有栖川宮織仁親王第8皇子)
上記の他、生まれる前に流産した子供も4人いる。


徳川家定(1824-1858) 13代将軍
徳川慶昌(1825-1838) 一橋徳川家第6代当主
前田慶寧(1830-1874) 加賀藩第13代藩主
池田慶栄(1834-1850) 鳥取藩第11代藩主
徳川家茂(1846-1866) 14代将軍
蜂須賀茂韶(1846-1918) 徳島藩最後の藩主
徳川昌丸(1846-1847) 一橋徳川家第8代当主



貧乏人の子沢山とはいうけれど、子沢山ゆえに貧することもある。
そういえば、産めよ増やせよの時代の日本は、大多数の家庭が貧乏だった。

赤門の真向いにあるのが、一葉ゆかりの法真寺。
案内板には次の記載がある。


   樋口一葉ゆかりの桜木の宿

 樋口一葉(1872~1896)の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておはします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・・」
 文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。
 樋口家は明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳~9歳)住んだ。一葉家にとって最も豊かで安定した時代であった。
 一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町(現西片1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向かって左手にあった。



写真左のビルの奥が、一葉が両親家族としあわせに暮らしていた場所のようだ。
今は駐車場になっている。

江戸時代末期の古地図。
本郷三丁目の記載はあるものの、現在は西に延びる春日通りは無く、菊坂の通りも区画整理されていない。

こちらはほぼ同じ時期のものをやや詳しく著している。
法真寺の場所は不動だが法泉寺と誤記されている。
今度は下のものとの比較だが、一葉旧居南西の崖上には「小役人」とあるが、現代でも頻繁に使いたい表現だ。

そして一葉が菊坂で暮らした明治期のもの。
法真寺、そして旧居、79、80番地が見える。
字が小さすぎて判読が難しいが、小役人の敷地は真砂町「警視微毒病院」となっている。
これは明治7年に公布された医制の「微毒院」のことか。
微毒とは名ばかりで、当時は忌避や大きな差別の対象だったハンセン病関連の施設だろう。

明治26年7月20日、「塵之中」の日記に以下の記載がある。
この日、一葉と母、妹の三人は、菊坂から下谷区龍泉寺町に転居した。


此家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、夕がたよりとゞろく車の音、飛ちがふ燈火の光り、たとへんに詞なし、行く車は午前一時までも絶えず、かへる車は三時よりひゞきはじめぬ、もの深き本郷の静かなる宿より移りて、こゝにはじめて寝ぬる夜の心地、まだ生れ出でゝ覚えなかりき、家は長屋だてなれば、壁一重には人力ひくおとこども住むめり


一葉は背水の陣だった。
しかし、「千々にこゝろのくだけぬ」と、心細さと先行きの不安も吐露している。
その不安は半井桃水への思慕へと及ぶ。


唯かく落はふれ行ての末に、うかぶ瀬なくして朽も終らば、つひのよに斯の君に面を合はする時もなく、忘られて、忘られはてゝ、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし、


小説の内容は省略するが、この時の「行雲」の思いが熟成され、やがて「ゆく雲」に結実する。
主人公のお縫は一葉、野沢桂次は桃水をモデルとして読んで差し支えないだろう。
物語は嫁を娶った桂次の心変わりで終わるのだが、ただひたすら桂次からの便りを待ち続けるばかりの、お縫のけなげさが哀れを誘う。


もの言へば睨まれ、笑へば怒られ、氣を利かせれば小ざかしと云ひ、ひかえ目にあれば鈍な子と叱かられる、二葉の新芽に雪霜のふりかゝりて、これでも延びるかと押へるやうな仕方に、堪へて眞直ぐに延びたつ事人間わざには叶ふまじ、泣いて泣いて泣き盡くして、訴へたいにも父の心は鐵のやうに冷えて、ぬる湯一杯たまはらん情もなきに、まして他人の誰れにか慨つべき、月の十日に母さまが御墓まゐりを谷中の寺に樂しみて、しきみ線香夫々の供へ物もまだ終らぬに、母さま母さま私を引取つて下されと石塔に抱きつきて遠慮なき熱涙、苔のしたにて聞かば石もゆるぐべし、


それは実の母亡き後、後妻に入った気性の強い継母と暮らす中で、お縫が身に付けざるを得なかった必然の幼い処世術であるが、何事にも控え目なお縫のその心根が読者を惹き込んで行く。
桂次には気に染まぬ結婚だったはずが、いつしか手紙も途絶え、やがては年賀状と暑中見舞いだけになってしまう。


二月に一度、三月に一度、今の間に半年目、一年目、年始の状と暑中見舞の交際になりて、文言うるさしとならば端書にても事は足るべし、あはれ可笑しと軒ばの櫻くる年も笑ふて、隣の寺の觀音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれみ給へば、此處なる冷やかのお縫も笑くぼを頬にうかべて世に立つ事はならぬか、相かはらず父樣の御機嫌、母の氣をはかりて、我身をない物にして上杉家の安隱をはかりぬれど、ほころびが切れてはむづかし。


こうして物語は終わる。
ほころびが切れてはむづかし
は暗示的だが、一葉の描くヒロインたちは決して自らで動けない境遇に甘んじるしか術はない。
結びの余韻は読後の残り香であって、これそこが一葉文学の真骨頂であり、人口に膾炙される核である。

一葉晩年、といってもわずか24年の生涯だが、この法真寺横で暮らした幼い日々を懐かしんで、一葉は次のように記している。


かりに桜木のやどといはばや、忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき、狭うもあらぬ庭のおこを春は左ながら打おほふばかり咲みだれて、落花の頃はたたきの池にうく緋ごひの雪をかづけるけしきもをかしく、松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける、


桜の時期は外したが、確かに桜の古木がある。
ただし一葉の見た桜とは、とっくに代替わりしているはずだ。

本堂で手を合わせながら一葉の姿を頭に描く。
一葉文学に接していると、利発な少女奈津がこの境内で遊んでいた時代から、もうすでに一世紀以上も時を隔てているとはとても思えない。

本堂横に「一葉塚」の石碑。
その奥には腰衣の濡れ仏さま。
しかし現在の仏さまは本堂の軒下に鎮座している。


隣の寺の觀音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く


一葉が拝んだであろう「腰ごろもの観音さま」に、いま私も一葉と同じように頭を垂れ合掌している。

案内板とは別に、「ゆく雲」の一節を載せる。


 上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内廣々と桃櫻いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの觀音さま濡れ佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて前に供へし樒の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢卷の上へ、しばしやどかせ春のゆく衞と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの朧月よに人顏ほのぼのと暗く成りて、風少しそふ寺内の花をば去歳も一昨年も其まへの年も、桂次此處に大方は宿を定めて、ぶらぶらあるきに立ならしたる處なれば、今歳この度とりわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん春はとても立かへり蹈べき地にあらずと思ふに、こゝの濡れ佛さまにも中々の名殘をしまれて、夕げ終りての宵々家を出ては御寺參り殊勝に、觀音さまには合掌を申して、我が戀人のゆく末を守り玉へと、お志しのほどいつまでも消えねば宜いが。

本堂の右奥に「一葉会館」がある。
不定期の公開らしいが、一葉ゆかりの品も保存されていると聞く。

法真寺では、毎年11月23日の一葉の命日に法要が営まれる。
ここ以外でも、さまざまな場所で一葉忌の催しがある。
台東区竜泉の一葉記念館しかり。
菊坂の伊勢屋質店も、この日は内部を一般公開している。
もちろん杉並区の墓所では一日中、香華が絶えることはない。

誰もが24歳で逝った一葉を惜しむ。
もう10年、せめてあと5年でも元気でいてくれたなら、もっと素晴らしい作品が生まれていたはずと…。
しかしそれは意味のないこと。
一葉の親友だった伊東夏子は、「かつおぶしを削るように命を削って小説を書いていた」と一葉の生きざまを語ったが、やはり奇跡の14ヶ月に一葉文学は結実していると考えたい。
そう思わなければ、あまりに哀し過ぎる早世ではないか。

一葉会館の前も駐車場になっている。
そこは法真寺の境内だ。
よく見れば積まれた石塀の中に多数の墓石が流用されている。
どのような経緯か不明だが、これは衝撃だった。

画像を拡大してみた。
無縁になれば仕方ないことなのか。
世の無常が沁みる。


境内を後に本郷通りを北に少し歩き、郁文堂ビルの古めかしい大理石を横目に通り過ぎて、喫茶ルオーのコーヒーでひと息ついた。

一葉の父は山梨の農家の出だが、幕末に八丁堀同心株を買い士族になった。
維新後はそのまま明治新政府の役人として勤めたが、一葉4歳の時に職を辞した。
生活の余力を残しての決断で、しばらくは暮らしも安泰、一葉のしあわせな5年間が「桜木の宿」で続いた。
しかし少しずつその余力も衰えて行き、明治22年、一葉17歳の時に父は他界。
以後、一葉の経済的苦難の日々が始まる。

クラシックが流れるルオーの店内で気が付いた。
無縁の墓石は、一葉文学のヒロインたちの行く末に共通する実相ではないのか。

独りよがりの感傷に、コーヒーの苦さが増した。

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