小諸なる古城に摘みて濃き菫

2017年4月7日



小諸の春はまだ浅く霞み、千曲川は緩やかに流れる。
懐古園を逍遥すれば、藤村を思うのは自然なことで、私もひととき遊子となる。

時間は変化を測る尺度だから、小諸時代の藤村が訪ねた千曲川や懐古園や中棚温泉など、目に映るすべてが現在とは違っていたはず。

半眼で透視を試みれば、どことなく当時の光景が浮かぶような気になる。
自己暗示と想像力である。

タイトルは、小説家、戯曲家で、三汀(さんてい)の俳号を持つ久米正雄の句。

小諸なる古城と来れば、誰もが藤村を思い出すが、ちょっと安直な句ではないか。

しかし、久米三汀が実際にスミレを摘んだかは不明でも、百年も前の懐古園はイメージ出来た。
知らぬ時代だが、根拠のない郷愁や懐かしさに捕らわれたことは間違いない。
懐古園とはよく名付けたものだと思う。

ずいぶん久し振りに、久米正雄の短編集「学生時代」を読んでみた。
もう読むこともないだろうと死蔵されていた文庫本を、押入れに首を突っ込んで探し出した。

すっかり忘れていたが、読み進むにつれて思い出して来た。
「受験生の手記」と「嫌疑」の二編は、主人公の自殺で物語が終わる。
このパターンに馴染めず、久米正雄から遠ざかっていた。

それでも歳を重ねると、若かった頃の印象は消え、この結末しかなかったのかとも思い直した。
もちろん、時代の違いもあるだろうが、この違い(違和感と置き換えてもよい)は、こちらの今まで積み重なった経験値の作用でもある。

気持ちを切り替えるために、藤村の小諸なる古城のほとり、千曲川旅情のうたの二編を読み返した。
思い出したくもない思い出ばかりが増え続けて自己嫌悪に陥る中、この詩だけは精神の安定を保ってくれる。



    小諸なる古城のほとり


 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ
 緑なす繁蔞は萌えず
 若草も藉くによしなし
 しろがねの衾の岡辺
 日に溶けて淡雪流る

 あたゝかき光はあれど
 野に満つる香も知らず
 浅くのみ春は霞みて
 麦の色わづかに靑し
 旅人の群はいくつか
 畠中の道を急ぎぬ

 暮れ行けば浅間も見えず
 歌哀し佐久の草笛
 千曲川いざよふ波の
 岸近き宿にのぼりつ
 濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む



    千曲川旅情のうた


 昨日またかくてありけり
 今日もまたかくてありなむ
 この命なにを齷齪
 明日をのみ思ひわづらふ

 いくたびか栄枯の夢の
 消え残る谷に下りて
 河波のいざよふ見れば
 砂まじり水巻き帰る

 嗚呼古城なにをか語り
 岸の波なにをか答ふ
 過し世を静かに思へ
 百年もきのふのごとし

 千曲川柳霞みて
 春浅く水流れたり
 たゞひとり岩をめぐりて
 この岸に愁を繋ぐ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?