鳥辺野考

2008年11月3日



以前、東山のミヤコホテルに触れたので、東山つながりで清水寺付近で気になっていることを探ってみたい。

京都といえば古都。
何しろ1200年の歴史がある。
そして古都といえばたくさんのお寺。
これも当たり前だ。
ところがいつも疑問に思うことがある。
日本全国、どの地方に限らず、都心ですら大抵のお寺の敷地には、本堂などの伽藍とワンセットのように、必ず墓所がある。
ところが京都では、お寺に墓所があることは少ない。
私の見落としかも知れないが、そんな印象を強く持っている。

ここで京都の歴史を振り返ってみよう。
例えば、鳴くよウグイスから関ヶ原までの、およそ800年を切り取ってみる。
平城京の場合、当時の人口は、およそ10万~20万人という歴史学者の推測がある。

では平安京はどうだろう。
乱暴だが、800年間の人口が30万人のままで変わらないと仮定してみる。
そして、世代交代のサイクルを40年としよう。
現代と違い、初産の年齢がほとんど10代半ばと低いから、妥当な数字だろう。
(30代と置いてもいいくらいだ)
800年間で40年サイクルの世代交代を繰り返すと、20世代になる。
30万人×20世代は600万人。
これがそのまま、平安京内での800年間の死者数でもある。
600万人…。
少なく見積もったのに、想像もつかない、気の遠くなる数だ。

さて、この600万人はどこに葬られたのだろう。
私が疑問に感じるのはここだ。
藤原京では初瀬山、平城京では那羅山や地獄谷が知られている。
これは春日山の東裏近辺を指すのだが、現在訪れると、鎌倉時代の石仏群が並んでいるし、その奥、石切峠付近の石窟には、平安時代に彫られた石仏もある。
明らかに、死者を供養するためのものだろう。
そして平安京。
一般にいわれるのは、化野、蓮台野、そして鳥辺野だ。
この三ヶ所が京都600万庶民のおおよその「墓所」である。

清水寺の高所から見ると、茶碗坂と、土産物屋の並ぶ風景が目に入る。
ところがその一帯は小さな谷の尾根筋であり、確か家並のすぐ左側は切れ落ちて、その下は東本願寺の大谷廟所などがあるはずだ。

かつて、大谷廟所には一度だけ訪れたことがある。
谷一面を埋め尽くすように墓域が広がっていた記憶がある。
知識不足ではっきりしたことは言えないが、この辺りを鳥辺野と総称していたはずだ。
平安京に暮らし、亡くなった人たちは、ここに葬られたのだろう。
遅ればせながら、市内のお寺に墓所が少ない現実の一端を理解したような気がした。

いま「葬られた」と書いたが、それは正確な表現ではない。
医療行為に関して、祈祷などが主だった当時は、死者が多かった。
市中には度重なる戦乱による大量の死者があふれ、また、天然痘などの疫病や結核などが蔓延し、したがって平均寿命も短かった。
路傍に放置されたままの死者も珍しくないと、公家の日記にもある。

時代が下って、明治新政府が、死体の市中放棄を禁じるお触れまで出しているので、近世まで、その習慣というか、風習は残っていたと思われる。
それらの光景は「餓鬼草紙」などでも明らかだ。

人間の死体を喰らう鬼や、腐肉を漁る野犬たち。
まさに、これこそが地獄絵図である。

私たちが、死人はもとより、あらゆる動物の死骸を見ると、なんともいえぬ憂鬱な気分に襲われるのは、こうして形態が実体ではなくて、単に、それの現象に過ぎなかったということを、その屍から、最も鮮やかに見せつけられることによる。

ショーペンハウエルの言葉だが、人間の思考回路を如実に言い表している。
細菌やウイルスなどの知識が皆無ならば、救いは宗教に求めるしかない。
浄土思想や信仰が、確固たるポジションを得た所以でもある。
大宝律令では、
「無位無官以下墓ヲ作ルコトヲ得ザレ」
とあって、この喪葬礼が長い期間、継続していたのではないか。

ここでいう「墓」の定義は不明だが、そのまま読むならば、庶民は埋葬を許されなかったのではないか。
火葬は天皇以下の皇族や、昇殿を許されたごく少数の貴族だけの特権で、墳墓の造営も自由だった。
その記録も多い。

ところが庶民は造墓を許されないから、結局は死体を放置するしかなかった。
葬る(ホウムル)は、放る(ホウル)から転化した言葉だというから、鴨川へそのまま流す水葬や、鳥辺野なのでの鳥葬、風葬も盛んだったと考えるしかない。
その場所が、平安京の場合は化野、蓮台野、そして鳥辺野なのだろう。
それでも、餓鬼草紙を見ると墓があり、土饅頭もある。

しかし火葬されずに放置された木棺や、そのまま置き去られた死骸も描写され、それらは鬼や野犬に蹂躙され放題だ。
末法思想による恐怖や厭世観も相まって、明日をも知れぬ庶民の、本来健全であるはずの死生観も揺らぎ、崩壊しつつあったのだろう。

万葉集には、行路病死者が打ち捨てられたままの光景を詠んだ歌もある。
やがて人々は浄土信仰に救済を求めるようになるのだが、まだまだ目の前の過酷な現実から逃れられないでいた。
地獄絵図が描かれた所以でもある。

末法元年とされた永承七年(1052年)以降、源平の争いでは膨大な死者が出、平家の没落とともに、世間は無常感に染まった。
西方極楽を提示してみせる本格的な阿弥陀信仰の浄土宗や浄土真宗の出現は、鎌倉時代まで待たねばならない。
それでも南北朝の争い、応仁の乱、文明の内乱と、病死以外の死者は膨大な数に上る。
極楽浄土は遠い。

その一方で「徒然草」には以下の記述も見える。

あだし野の露きゆることなく、鳥部(辺)山の烟り立ち去らでのみ住みはつる習いならば、いかに、もののあはれもなからむ。世はさだめなきこそ、いみじけれ。

「鳥部山の烟り」とは、火葬を指している。
日本は酸性土壌なので、放置したままでも死骸は風化し、やがて自然消滅するが、これらの行いは、世を去った肉親を慈しむ身内や、心ある僧たちの手によるものだろう。

宗教自らが現世の不安を造り出し、提示する。
これは落語の「死神」にも通じている。

ここでは鬼が死神の役を担い、分担して市中に散って行く。

死者は小屋の隅に寝かされ、屋内ではおそらく結核に冒されて喀血する男の、その血を痩せた犬がすする。
鬼は男の死を、屋根から窺いながら待つ。
無関心に通り過ぎる人たちがいる。
これらこそが、宗教が示す末法の姿なのだろう。
鬼はともかくとしても、当時の死生観がよく表現されていて興味深い。

さて、ここに十九世紀末に書かれた一冊の本がある。
著者はアドルフ・フィッシャーというオーストリアの美術研究家である。
タイトルは「100年前の日本文化-オーストリア芸術史家の見た明治中期の日本」
<金森誠也 安藤勉訳 1994年 中央公論社刊>
この中に、おそらく鳥辺野と思われる場所での火葬を記した「京都の葬祭場」という一文がある。
少々長いが、引用させてもらう。

小川のほとりを十五分ほど歩いた後、わたしはきわめて手入れのよい広い道路が分岐し、樹木が生い茂る山々に囲まれた谷間を登ってゆく場所に着いた。何事かが記された石碑が、道しるべであった。
「この石碑にはなにが書いてありますか?」
 わたしは通訳にたずねた。
「この道が、西本願寺に所属する火葬場に達することを示しています。」
「西本願寺というと、わたしがしばしば狩野派のすばらしい絵画や、左甚五郎のきらびやかな彫刻に感嘆したあの寺のことですか?」

「火葬の絶対支持者である」著者は、浄土真宗西本願寺門徒の火葬場に興味を覚えた。

火葬場に着いたとき、わたしは表示板の前に立ったが、この表示板の内容について通訳は次のように説明してくれた。すなわち、遺体は午前七時から午後十一時までに火葬に付されることになっているが、伝染病で亡くなった人の遺体は、つねにただちに火葬にしなければならない、というのだ。
(中略)
 坂道を登りきると、わたしは自分が、背後に巨大な煙突が見える建物の側面に立っているのに気付いた。わたしの頼みに応じ、火葬場の管理者である本願寺の僧は、寛大にも場内の見学を許してくれた。
 火葬場の前方には、四方に壁がなく、柱だけの屋根付きの建物があった。ここは遺体が荼毘に付されている間、儀式を行う葬祭場だ。
(中略)
 喪に服する人々は、遺体が焼かれるまで葬祭場の前方にある茶屋に留まっている。この茶屋のわびしい外観は、ここには陽気な客は訪れず、歌舞音曲などとは無縁であることをすでにほのめかしていた。
 蓮華の彫刻で飾られ一方の側のみ開けてある扉を通って入る火葬場には十四の方形焼却炉があり、そのうち十二は坐棺用、二つは寝棺用である。
 八十から九十立法メートルがあり、天井がアーチ形になっているそれぞれの焼却炉の上部には火葬場の煙突に通じる通気縦杭が取り付けてある。棺が前方の入口から炉の中に入れられると、炉は二重の鉄製の扉で閉じられる。他方、炉の背後の小さな扉から十センチほど奥まったところにある鉄格子の上に松材と藁が置かれ、点火される。
 炉の背後の小穴を通じてつねに必要に応じて燃料が供給される。それと同時に、火葬場の従業員は、遺体がどのような焼け具合になっているかをここからのぞいてたしかめることができる。
 遺体が十分に焼却され、遺骨だけが残るという状態になるまでには、ふつう二時間かかる。遺骨はそのあと、大きな鉄製のショベルですくわれ、縁が湾曲した床几状のブリキ製の台の上で冷却される。間違いが起こらないように小さなブリキ板に火葬された人の名を書いて、遺骨の傍らに置く。
 いよいよ遺骨が遺族に引き渡される段取りになると、入口の鐘が三度鳴らされる。遺族たちは埋葬される遺骨を骨壷や骨箱に収めるべく茶屋を出て急いで火葬場に入ってくる。
 残った灰状の骨は火葬場の上方の山に運ばれ、そこに埋められる。

長い引用だが、原文はもっと仔細に書かれている。

ここでは月平均で約350体が火葬され、その料金は、坐棺は一円、寝棺は二円だった。
著者が引き返そうとすると、葬列が坂を登って来た。
火葬への興味や執着が、再び著者の足を止めさせる。
あまり良い趣味嗜好ではないが、今では貴重な資料である。

ゆっくりと葬列は近づいてきた。少なくとも二メートル半はあろうかと思われる黄金色の蓮華の造花を太い二本の竹竿にのせてかついだ六人の男が行列の先頭に立った。蓮華の花びらにはなにやら書いた紙片が垂れ下っていた。どうやら故人の名前が書いてあるらしい。ちょうどヨーロッパで友人が花冠を死者に捧げる風習に似ていた。ついで仏教徒にとって神聖な、常緑のしきみの新しい枝を捧げた男が歩を進めた。彼の後ろに四人の男が平行にした二本の竿の上に天蓋のような屋根のついた棺をのせて進んだ。
 棺を運ぶ人々のすぐ後を人力車に乗った僧がつづいた。やはり人力車で僧に従ったのは、膝の上に蓮華の形の菓子をのせた少女で、おそらくほこりがかかるのを防ぐためであろう、菓子の上に前掛けをかぶせていた。
 その次の人力車には、白装束の婦人が乗っていた。顔は袖で隠していたので見えなかったが、まるで痙攣したように身を震わせている様子からして、過酷な運命に出会った人であることは明らかであった。
 しかし、彼女を運ぶ人力車夫もひどくあえいでいた。一息ごとに、まるで心臓が破裂するかのようであった。日焼けした頬の上は、まさに流汗淋漓という有様で、足もとまで汗がしたたり落ちていた。
 行列は火葬場の前で停止した。
 棺は火葬場の中央にある台座の上に安置され、遺族一同、ここから退去するように促され、扉が閉じられた。人々は半ば意識を失った不幸な白装束の婦人を屋外に連れ出した。そのとき初めてわたしは彼女の顔つきを見た。苦しい体験が顔面にきざまれていたことを今更説明する必要はないだろう。彼女は愛児を失った母だったのだ。
(中略)
二人の婦人に助けられた母親は、扉が開けられた火葬場の中によろめきながら入っていった。煤で真っ黒になった二人の男が、小さなブリキ板の傍らに、炭化しこなごなになった遺骨を並べたブリキ張りの床几状の卓子を運んできた。支えになってくれた女たちを振り切った母親は、わたしの体内のすべての神経を振動させるような叫び声をあげながら、愛子の尊い遺骨の前にひざまずき、両手を広げいぶかるように空を見あげながらしわがれ声で叫んだ。
「残ったのはこれで全部ですか?」

火葬の一部始終を見守った著者は、遺骨に花を添え、谷底に消える葬列を見送った。

いずれは火葬され、入る墓もある人たちの大部分は、おそらく、すぐ近くにこんな場所があるとも知らず、観光を楽しんでいる。
私とて、それは同様だ。
人間の英知によって伝染病などによる罹病死者は激減した。
平均寿命も格段に伸びた。
だから清水寺などを始めとする、神社仏閣を訪れる人たちは、参詣や参拝とは言わず、観光と言う。


引用の羅列ばかりで消え入りたくなるが、人間の理解できない隙間を埋めるのが妖怪で、いずれはそちらへ内容をシフトさせてみたい。

妖怪云々は置いて、いずれ九想図の和歌にも触れたい。関心のない人には超退屈な内容だろうが、こんなペダンチックなことにも関心が向く。

悪い性癖だ。


まだまだ旅(観光ですが…)は東山付近をウロウロと回ります。

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