数寄屋橋の思い出

2009年1月5日



某さんが初売りに行きたいと言うので付き合わされた。
バッチリメイクでキメた某さんと銀座へ出てショッピング。
近所へ買い物に出る時はスッピンなのに、この感覚がガテンがいかないけれど、スッピンでは社会に迷惑をかけると主張するので黙っていた。

わざわざ都心くんだりまで来て、ショバ代を上乗せされた商品を買う感覚もガテンがいかぬ。
それでも某さんの後ろについて歩き、荷物と代金はこちら持ち。
「お年玉ね」
などと不敵な薄笑いがブキミなので、その件についても沈黙を通した。
それにしても、三が日も過ぎて、そろそろ働き始める人も出て来るだろうに、どこへ行っても人、人、人ばかりだ。
他人様を批判はできないけれど、清掃車でこの人混みを全部きれいに掃除して、どこかへ持ち去ってもらいたいと思う。

数寄屋橋まで歩いた。
後宮春樹と氏家真知子はいなかったが、ここも人だらけで嫌になってしまう。
海外へ脱出した人も、田舎へ帰省した人も、どんどん東京へ戻って来ているのだろう。
戻って来なくてもいいのにと、毎年同じことを考える。
そうすれば東京も、もっと快適な街に戻るだろう。

外堀が埋められる以前の橋の姿は幼すぎて記憶にないけれど、日々、東京が変化する光景は嫌というほど見せつけられて来た。
この周辺でいえば、日劇や朝日新聞本社の記憶などは鮮明に残っている。
小沢昭一さんが、著書の中で嘆いていたことを思い出した。


東京にも昔は川が縦横に流れていたが、バカが寄ってたかって埋めつくし、みんな道路にしてしまった。日本中で東京だけだろう川を失ってしまった町は。


懐古趣味はないけれど、まったく同感である。

と言ったそばから回顧するのだが、懐古ではなく回顧だから構わないだろう。
二十歳頃だったろうか、きれいなお姉さんと数寄屋橋界隈をデートした。
当時、数寄屋橋交番前には数人の靴磨きの人が路上で商売をしていた。
その中で、一番の高齢と思われるお婆ちゃんに靴を磨いてもらった。
靴はそれほど汚れてはいなかったので、あくまで、気まぐれの行動だった。
確かな記憶はないが、たぶん300円くらいだったろうか。
当時、ラーメン一杯の値段がそのくらいだった。

岩倉具視の500円札を出して、お釣りは結構です、と言った。
お婆ちゃんは無言で軽く頭を下げただけだった。
何だか自分の行いが傲慢で嫌になり、せっかくのデートを早々に切り上げた。
分をわきまえるとか、人を見下さないとか、そんな当たり前のことを、当時の大人たちは無言で若者に教えていたのだ。
いま思い出しても、顔から火が出る思いである。
あの時に戻れるなら、己の胸ぐらを掴んで張り倒してやりたい。
お婆ちゃんも、もうこの世にはいないだろうが、感謝しなければいけない。

謙虚に生きる。
これを今年の目標にしよう。

若い二人が 始めて逢った
真実の 恋の 物語り


買い物袋を両手に持たされた今回は、果たしてデートといえるのだろうか。
当時のきれいなお姉さんはスッピンだった。
やがて相手は代わり、年齢も倍以上である。
ならばバッチリメイクも仕方ないか。
せめていつまでもきれいなおばさんでいて欲しいと、祈るような気持ちで願うだけである。

「おばさん」と表現すると某さんは不機嫌になるので、おじさんは気をつけています。

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