環境問題へのキリスト教のアプローチの可能性 ルーマンの社会システム論を思考のきっかけとして

 「N.Tライトとキリスト教の公共性」研究会発題
環境問題へのキリスト教のアプローチの可能性
ルーマンの社会システム論を思考のきっかけとして
            発題者 小金井福音キリスト教会濱 和弘
               日本同盟キリスト教団中野教会にて

最初に、本論考と本論考におけるルーマンとの関係について、若干説明しておきたい。表題にあるように、本論考はルーマンの社会システム論を思考のきっかけとしている。それは、環境問題を分析的に主題化するには、ルーマンの社会システム論を用いるのが、筆者の知識内では最適であると考えたからである。それは、ルーマンの社会システム論の中に環境問題(厳密に言うならば環境汚染問題もしくは環境破壊問題)について何かしらの解決策があるとか、ルーマンの社会システム論が環境問題について何かを明らかにすると言うことでない。もちろん、環境問題の現状を分析することを通してルーマンの社会システム論の是非を問うものでもない。あくまでも、「環境問題へのキリスト教のアプローチの可能性」に関する思考を組み立てる骨子を築きあげるために、その思考を整理するための参考toolとして用いたのであり、それゆえ「きっかけ」なのである。

 そこで、ルーマンの社会システム論であるが、筆者はそもそも神学畑の人間であり、社会学が専門ではない。だからルーマンについても、専門的に研究したというわけではなく、概略的に知るぐらいでしかない。だから、筆者がそれを分析のための参考としたのは、ルーマンの社会システム論においては、その外枠に過ぎない部分である。実際、ルーマンの社会システム論は非常に分厚い議論となっている。だから、それを簡略的に捉えて用いるなどは、ルーマン研究家からすれば、冒涜的な行為に思われるかもしれない。
 しかし、問題の焦点はルーマンにあるのではなく、「環境問題に対するキリスト教的アプローチの可能性」であり、それを分析的に主題化し考えるためであって、そのために、ルーマンの社会システム論は外枠であっても、極めて有効であると思われたからである。だから外枠ではあるが用いさせていだいた。その点はお許し願いたい。
 そこで、ルーマンの社会システム論の外枠となる概要であるが、ルーマンの社会システム論においては、社会全体は、ある領域において継続したコミュニケーションによって成立する自律した様々なシステムが分化し機能していると見られている。例えば経済システムは経済に関わる問題について継続的コニュニケーションがなされるものであり、システム内には経済に関わる様々な諸要素と諸要素を結びつける関係があり、それが関連づけられながら経済matterに関するコミュニーションを進展させていく。同様に、政治システムならば政治に関連するmatter、教区なら教育に関連するmatter、宗教なら宗教に関連するmatterに関するコニュニケーションを進展させていくのである。
 これらのシステムは自律的なものであるから、他の領域とは明確な境界線を持つ。しかしそれぞれのシステムにとって、他のシステムはそれをとりまく環境として存在する。そして、それぞれの自律したシステムは、その環境として存在するシステム内のあるmatterそれ自体、あるいはそれに関係する要素を取り込み、そこで自らのmatterとして取り組み、自己完結してくオートポイエーシス的な存在である。つまり、それぞれのシステムは独立した自律的システムとして存在しつつも、それぞれが相互的に環境として影響を与え合う関係である。
 また、各システム内にあるmatterは、それ自体としてコニュニケーションが構成され維持されることができるようになれば、そのmatterはそれまで帰属していたシステムから分出し、そのmatter自体が、一つの独立したシステムとなるのである。
 このようなルーマンの社会システム論にあって、環境そのものは、システムを構成するわけではない。環境は、社会のシステムを取りまく全体であってシステムそれ自体ではない。そして、環境問題は、人間社会を取りまく環境に起こった問題である。この環境問題は、人間の経済活動、とりわけ産業革命以後の工業化社会の中で起こった問題であり、ルーマン的に言うならば経済システム内の要素でありmatterである。
 ところが、この環境問題は、ことの起こりが経済システム内の経済matterであるが、全体性をもつ環境そのものの問題でもあり、もはや政治や教育等々といったものまで包括するmatterとして、経済システム内のmatterとしては収まり切れない問題となっている。そこで、環境問題は、経済システムから分出した独自のシステムとして捉える必要がある。
 そしてキリスト教が、この環境問題を考える際には、この独立した環境問題史捨て身のmatterや要素をキリスト教というシステムにおいてコミュニケーションをすることで、キリスト教としての自律的なアプローチが完結する。
 このように環境問題の全体像をトレースし、その上で以下において論を進めて行きたい。

序 環境問題とは何か。

1. 問題の所在
今回、環境問題に対するキリスト教のアプローチの可能性を考えるにあたって、まずもって今日の社会において環境問題として意識されている問題として以下のようなものが挙げられるであろう。

1) 気候変動の問題 -主に温暖化の問題-
2) 大気汚染    -pm2.5等、酸性雨、オゾンホール-
3) 土壌汚染    -放射能汚染土・工場跡地(豊洲市場問題等)問題-
4) 水質汚染    
5) 海洋汚染    -マイクロプラスティック・海洋ごみ・赤潮-
6) 森林破壊
    
2. 誰にとっての問題か
環境問題という時、まずもって考えなければならないのは、「それが誰にとっての環境か?」であり、また「誰にとっての問題か?」である。もちろん、それは言うまでもなく、人間の視座から見た環境であり、人間の生活の座からみた問題である。我々人間にとって、われわれを取りまく環境(自然)の未来はいかなるものになるのか、いかにより良いものになるのか。この問題意識が環境問題である。そこには、今の地球環境が決して良いものではなく、さらに悪くなるという意識がある。
では、そのような問題意識を持つのは誰なのであろうか。それについては、非常にベタではあるが、概ね次のような人々を挙げることができよう。

国家レベル:パリ協定(温暖化問題)に対して肯定的な立場の国々(否定的な立場もある)
地域レベル:マーシャル諸島(キャシー・ジェトニル=キジナー〈当時26
      歳〉の2014.9国連気候変動サミットでの演説:資料3)
            https://www.youtube.com/watch?v=PahnVMxQulk
      ツバル共和国・モルジブ共和国(資料4)等
世代レベル:グレタ・トゥーンベリ(16歳)
          国連気候行動サミット(2019.9演説:資料1)
           https://www.youtube.com/watch?v=PahnVMxQulk
国連気候変動枠組条約第25回締約国会議 COP25(2019.12演説)
   https://www.youtube.com/watch?v=m_lu6zFz5-Y&t=4s
    :セヴァン・カリス=スズキ(当時12歳)
  地球環境サミット本会議(1992年:資料2)
https://www.youtube.com/watch?t=T9YaagLB5Fg&index=62&t=0s&list=PLNe0pDYSfDivmEEe5jMSt4Ws-KnZxpSiW
    :youth for climate movement
https://www.youtube.com/watch?v=W4T0lXVQrXc https://www.youtube.com/watch?v=LHULg2BefKg
   https://www.youtube.com/watch?v=Jid6DNsCBfE

 これらの人々は、今の環境問題において不安を感じ、将来への希望を失っている人々であって、グレタ・トゥーンベリやセヴァン・カリス=スズキは、環境問題において自分たちの将来を悲観する若者の代表である。

3. 問題への視点
 このように、自分の問題として環境問題を捉えている人々は、なぜ環境問題を問題として主題化するのであろうか。そこに彼らの将来(未来)への不安と危機感という当事者意識がある。その不安と危機感とは
  
1) 気温上昇による海面水位の上昇
2)海洋の酸性化
3)生態系の変化
4)豪雨や干ばつ(現在に対して異常気象)

といったものである。

4. 環境問題の構造
基本的に環境問題(気候変動の問題・大気汚染・土壌汚染・水質汚染・海洋汚染・森林破壊)は、現代社会の工業化された社会の内で起こり、そして考えられていると言えよう。すなわち、現代の工業化された産業社会とそれに伴う経済システム内の人為的出来事として起こっている 。
ただ、気候変動だけは若干趣を異にしている。それは気候変動それ自体が、人為的出来事としてではなく、地球それ自体の気候変動の出来事ととして捉え得る可能性があるからである。それゆえに地球温高に関しては懐疑論(温暖化それ自体が否定されるかもしくは、温暖化を認めてもその原因を自然現象にもとめ、人為性を否定する)立場がある。しかし、多くの科学者(気象学者等)は、温暖化の原因に人為的原因を認め、国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC:Intergovernmental Panel on Climate Change)も人為的原因を原因があるとしている。

5. 二つの立場
国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に基づき、国際間において、1997年の気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)において京都議定書(1997年)でCO2の排出量を国家間で、地球温暖化対策として、「2008年から2012年の第一約束期間の5年間に、温室効果ガスを少なくとも5%削減する」ことを目標として掲げ先進国、のCO2の排出量を(アメリカ7%、EU8%、日本6%)に定めた。ただし、この時発展途上国の削減は求めなかった 。また。COPは繰り返し行われ気温上昇を2度以内に納める等の議論が積み重ねられ、最終的には2015年の第21回気候変動枠組条約締約国会議(COP21)にてパリ協定が結ばれ産業革命前より気温の上昇を2度までに抑え、そのために各国がCO2の削減を行うことに合意する。
しかし、これらの合意にもかかわらず、もっともCO2の排出量がアメリカは京都議定書を批准せず、パリ協定からも2017年に離脱する。アメリカが京都議定書を批准せず、またパリ協定から離脱した背景 には、CO2削減に産業界の受けるダメージがあると考えられるが、その際の理論武装に温暖化懐疑説が用いられている。
このCOPにおいては浮き彫りになっているのは、先進国と発展途上国との間の意見の相違であり、その背景には自国の利を主張する国家エゴがあると言えよう。つまり、環境問題が利益(利潤)追求という言葉でコミュニケーションがなされる経済システムによって構築された構造の内に取り込まれ、その中で議論されている。先のセヴァン・カリス=スズキの演説もグレタ・トゥーンベリの演説も、このシステムが張り巡らしている監獄の檻を見抜いている(資料1、2下線部参照)。それゆえに1997年のセヴァン・カリス=スズキから2014年のキャシー・ジェトニル=キジナーを経て、2019年のグレタ・トゥーンベリ、そしてyouth for climat Movementに至っても、彼/彼女らの奪われた未来が取り戻されるための具体的行動 が国家・企業に見ることができない現実があり、グレタ・トゥーンベリの怒りがあると言えよう。

本論 キリスト教会が環境問題に如何にかかわるか -当事者でないものが如何に当事者になるか-

1. システムとしてのキリスト教
これまで見てきたように、現在のところ環境問題は、利益(利潤)という言葉を中心に構築される経済システム内で語られてきた。それに対してキリスト教は、神についての語りを中心とする宗教システム内にある。したがって、教会が環境問題を考える場合、環境問題は環境問題として一度、経済システムとして分出させ、その上で、環境問題をキリスト教というシステム内でコミュニケーションがなされる一要素として取り込み、キリスト教システム内の外の要素として関連づけ、神についての語りに関係づけるかが問題となる 。
その一例は、ツバル共和国のクリスチャンの言葉の中に見ることができる。ツバル共和国は90%がクリスチャンだそうだが、ツバルに在住する、NPO法人ツバル・オーバービュー理事の河尻京子は、ツバルのクリスチャンの中には、「旧約聖書の創世記に記されるノアの方舟(はこぶね)の話から、神は虹を示し、人類を二度と大洪水で滅ぼさないと約束したから、海面上昇は起こらないと答える人もいた」っというのである 。
このような言説は、アメリカの福音派の牧師ロバート・ジェフレスがグレタ・トゥーンベリへの反論としてもちいたものでもある。この言説が正しいキリスト教聖書解釈に基づくか否かは別として、これは確かに、キリスト教という宗教システムにおいて語る環境問題である。
だからこそ、キリスト教のシステム内で神についての語りを通して反論されるべきである。そして、その様な神を中心に置いた語りの中においても、この言説は否定されるべきものであろう。なぜならば、ノアの箱舟の物語における虹の約束は、神が人類を滅ぼさないという約束であり、温暖化現象における破滅的未来は人類自らが滅びをもたらす自滅的行為だからである。
この誤りは、世界を神の裁きとその裁きからの救いという2項対立構造で捉える言葉をkey wordとするところから起こる神への語りをコミュニケーションツールとすることから生み出されている。では、キリスト教という宗教システムの別の言葉で語りうることはできるであろうか。
ここでは、二つの言葉を取り上げたいと思う。一つは神の像という言葉であるが、この言葉は主に人間が負うべき使命に関する問題に繋がり、創世記1章の創造物語を背景とする 。もう一つは、隣人愛であり、これは主にイエス・キリストの教説を背景にする。

2. 創世記1章に基づく神の代理としての務め -人間存在の使命からの視座-
 ジョン・H・ウォルトンはThe Lost World Genesis One(邦訳『創世記1章の再発見』いのちのことば社、2018年、なお原著は2009年)において、聖書神学の立場から、古代中東の視座にたって、旧約聖書の創造物語は、世界の物質的起源を記した書ではなく、宇宙全体が神の神殿として創造され、神殿としての機能が何であるかということを示したものであるという。
 神殿とは、神の住まいであり、また神がそこから統治される場である。つまり、超越者たる神が有限な世界(宇宙)に内在し、そしてその宇宙に内在しつつ宇宙を統治するのである。そして人間はその神の代理者としての機能を果たす役割を負う存在であると言うのである。その意味において、人間はまさに神の像を持つ損材なのである。ここには、有限な被造物である人間の内に神が内在するという神と宇宙との超越-内在の関係が、塵と神の像を通して人間に反映され、ミクロコスモスとしての人間存在がある。
従て、この世界は、宇宙に内在する神の住まいとして存在すると共に、神の像の内在する人間のためにも存在する。そして、このことが、人間にとっての環境問題、人間の生活の座からの視点での環境問題を、神についての語りを中心とするキリスト教システム内の語りとして語りうるものとする。
ウォルトンは、この世界が神によって創造されたことを否定しない。むしろ肯定する。その上で、この創造された世界が維持されるべきであるという。興味深いことに、ウォルトンは、創造の二日目について次のように述べる。重要な内容なので、少し長い引用になるが、そのまま引用する。

   (濱註:創造の二日目の)その第一の役割は、人間の生きることの出来る空間を生み出すことだ。
  そして、より重要な第二の役割は、降雨を制御する仕組み、すなわち天候が機能するための手段をもたらすことだ。世界の秩序は(とりわけ人間にとって)適切な降雨量に依存している。少なすぎれば餓死するし、多すぎれば水没する。宇宙的大水は、絶えまない脅威をもたらすが、「天空(ラキーア))は宇宙的秩序を確立する手段として創造された。今日の私たちが、水を留めて置く肉体の
障壁に特徴づけられた古代の宇宙地理学を保持しないとしても(濱註:古代中東の宇宙観および宇宙観的視座を知らないとしても)創造者の役割には天候の気候を創始し、維持することが含まれるという私たちの理解を変えることにはならない。(『創世記1章の再発見』69-70頁)

 ウォルトンは、創造の二日目の記事は、私たちが生きる物理的空間としての「世界」が機能し、その空間としての「世界」が維持するためには気候の維持が必要であるという。それゆえ神は、気候を維持される。この神が「世界」神が維持されるということは、我々人間がそれを維持するということでもある。なぜならば、人間は神の代理者としての機能を持ち、神の代理者としてこの世界を「維持(持続)」可能な世界として管理する役割を負っているからである 。
 今日の気候変動の問題、とりわけその中にあって地球温暖化の問題においては、人為的原因が地球の気候変動に異常をもたらすということが問題にされている。つまり「創造者の役割には天候の気候を創始し、維持することが含まれる」と言われるその働きを、神の代理者として担う人間自身が、その「世界」の維持、そして気候の維持を阻害しているという皮肉な事態を生んでいるというわけである。そしてこの(信仰上の)皮肉な事実の中に、我々は被造物の嘆き(ロマ8:18-22)を見ることができよう。ここには、本来あるべき神の国としての世界が人為的なことによって損なわれてしまっている。
だからこそ環境問題は、神の国の完成というキリスト教的視点から主題化された問題であり、人間にとっては、神による世界統治を代理する存在として、如何にこの問題に関わるかが、キリスト教という宗教システム内において語られるべき課題となる。

3. 務め遂行するパトス
 キリスト教という宗教システムにおいて、キリスト者が環境問題に関わる根拠は、人が神の像に造られたという創造の出来事に依拠している。神の像は、人間が神の統治を代理する者としての言わば動力である。この動力を動かす燃料となるものは何であろうか。すなわち、神の像が神の像として機能する力は何なのかという問題である。
 人間存在の内に刻まれた神の像が、最も完全な形で現れ出たのがイエス・キリストである。イエス・キリストは神の御子であり、「全き神からの全き神」だからである。だからこそ、我々はイエス・キリストの突き動かしていたものの中に、この神の像の中に、神の像を動かす燃料となるものを見出すことができる。
 ではそのイエス・キリストを突き動かしていたものは何か。それはイエス・キリストの教説の中に見出されるであろう。たとえば、イエス・キリストはマタイによる福音書22章において律法の中で最も大切な教えは何かと問われ

   22:37「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。22:39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。22:40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」

と答えている。
ここにおいては「神を愛すること」と「隣人を愛すること」は、基本的に第一の戒めと第二の戒めという構造で提示されているが、この両者は基本的に並列関係にある。つまり、神を愛することは人を愛することであり、人を愛することは神を愛することである。なぜならば、人間は神の像を持つ者として創造されており、人間は本性的に神の像を有するものだからである。ここのは、神の像を通して、超越者である神の有限な人間における内在、すなわち超越-内在の構造がある。これによって、いわゆるヒューマニズム(実体はヒューマニタリズム:博愛主義)もまた、神についての語りを中心とする宗教システム内にあるキリスト教というシステム内の言説となりうる。
また、このイエス・キリストの神を愛すること」と「隣人を愛すること」に関する教説は、ルカによる福音書では10章で取り扱われ、善きサマリヤ人の譬えにと話が流れ込む。「善きサマリヤ人の譬え」はイエス・キリストの教説における脱構築(常識や社会通念を超えた言動)が見事に表れた部分であり、まさに環境問題が経済システムの中におかれている現在のあり方(この世:κόσμος)に対する脱構築の方向を示していると言えよう。そして、この「善きサマリヤ人の譬え」に現わされた「隣人愛」こそが完全な神の像であるイエス・キリストを突き動かす燃料であるといえよう。なぜならば、この善きサマリヤ人こそ、イエス・キリストそのものであり、行ってあなたもそのようにしなさいと言われているからである。
このように、「善きサマリヤ人の譬え」は、隣人とは誰かということを問う問いに対して語られたものである。環境問題において誰がサマリヤ人であり、誰がか助家をもとめている瀕死のユダヤ人であるかと言えば、少なくともたすけをもとめているのは、少なくとも助けを求めているのは、祖国を失う危機感にあるキャシー・ジェトニル=キジナーや、自分たちの未来を失う危機感を持つグレタ・トゥーンベリやセヴァン・カリス=スズキ、そしてyouth for climate movementに参加している若者たちであると言えよう。では、「いってあなたもそうしなさい」と言われる隣人とは誰か。
 こうして、環境問題に取り組む「やがて」の成果が、今の私の利益ではなく、「やがて」という未来の彼らの利益となる。こうして、当事者ではないものが、当事者となるのである。

4. 問題の深刻さ
 ここまで、述べてきたことからも分かるように環境問題は、近接的未来にたいしての主題であり、かつ重要課題である。ところが、現実には、それが十全であるとは言えない実情がある。
 過去の環境問題が取り扱われる際、議論がなかなか進展しないかった原因として、その議論が、経済システムの中に組み入れられ議論されてきた経緯があった。それは京都議定書(COP3)パリ協定(COP21)にいたるまでのCOPの歴史を見ても明らかであり、COP21からアメリカが脱退した経緯を見ても明らかであると言えよう。
 もっとも、その経済システム内においても、状況の変化が見られる。すなわち、産業界内にもCO2削減に対して説教的に取り組む姿勢が見えてきている(資料5)。もっとも、このような試みも、CO2の排出量が世界2位(世界の15%、1位は中国で28%、日本は3.5%、ちなみにアメリカは一人当たりの排出量は1位)であり、資本主義経済の中心にいるアメリカの動向に大きく左右されよう。そして現状は、アメリカにおいては、COP等に対して必ずしも協力的ではない。実際、トランプ政権はパリ協定からの脱退を表明している。
 問題の深刻さは、このトランプ政権を支えているのが共和党であり、その共和党を支えているのが、アメリカの福音派だという事実である。アメリカの福音派は、聖書的価値観に生きていることを自負している。しかし、どうやら、彼らのいう聖書的価値観はLGBTQの問題や中絶問題に収斂し、環境問題は聖書的価値の範疇には無いようである。あってもその順位は限りなく下位にあるのかもしれない。このようにアメリカの福音において、彼らが環境問題にあまり関心を抱かない背景を神学的視野から分析的に捉えるならば、そこに何が見えてくるであろうか。
 一つには、彼らの福音理解にあると言えよう。彼らの福音理解の中心、そしてそれはアメリカに限らず、プロテスタントに共通する問題であるが、イエス・キリストの福音を、私の罪からの赦しとして捉え、それに福音を限定する点にある。しかも、その福音は「信仰義認論」に裏付けされた「恵みのみ(sola gratia)」によって人間の業を排除する。このような福音理解は、神と人との関係を、私と神という一対一の関係に収め、関心が個人の罪の悔い改めと回心の出来事に向かう。アメリカ福音派の聖書的価値が、
LGBTQの問題や中絶問題に収斂するのはこの故である。すなわち同性愛や人口妊娠中絶問題を個人の罪の問題と捉えるからである。これは、キリスト教神学を救済論、とりわけ償罪論に特化して捉え、創造論が欠如している点にある。アメリカの福音派にとって。創造論は科学との対決においてのみ主題化される問題であり、救済論的な意味持たない。
 二つ目に上げることができるのが、終末論的関心の偏りが挙げられよう。アメリカの福音派の終末論は、神の決定的裁きである最後の審判に重心が置かれている。したがって、終末論的関心はやがて来るべき未来にあり、神の国も終末論的彼岸の問題になる。そのため、現在の社会の変革や現状の改革に対する宗教的視座からの関心にはあまり重きが置かれない。あったとしても、それは変革や改革それ自体に関心があるのではなく、変革や改革への参与を通しての「罪の赦し」を主題とする宣教にある。
 彼らの終末論的期待は、「やがて」の神の裁きと神の国の到来であって、今の「世界(社会)」は滅びの対象であり、極端な場合はグレース・ハルセル『核戦争を待望する人びと』(越智道雄訳、朝日選書、朝日新聞社、1989年)という人をも生み出してしまう。そして、そこには不安と危機感を持つ当事者意識はない。
 また、アメリカの福音派が環境問題にあまり関心を抱かない三つ目の背景として、彼らの聖書解釈の問題が挙げられよう。アメリカの福音派においても、また日本の福音派においても、福音派を特徴づける聖書観は、「聖書が誤りない神の言葉である」という信仰の立場は同じである。しかし、この誤りがないという言葉がくせ者であり、この言葉をもって、リテラリズム的に解釈する立場(いわゆる根本主義)もある一方、聖書が書かれた時代の背景や思想に分け入りながら聖書の言葉を解釈しようとする立場もある(前出のジョン・H・ウォルトン等)。
ここで問題にするのは、主にリテラリズムもしくはリテラリズム的解釈を用いるものである。もちろん、そのような聖書解釈をアメリカの福音派として一括するには、先に上げた理由から少々問題がある。
しかし、そのような立場を超えて、現実には、聖書を解釈し、そこから主義主張を展開するといっても、
必ずしもリテラリズム的に聖書を読み取り、それが行動に至っているというわけではない。
 そこには、何らかの先行する思想や主義・主張によって聖書の言葉の選択が行われており、完全なリテラリズムによって聖書を読み取っていない。これは、聖書を読み取る際に、読み取る側に逆に既に何らかの構造があり、その構造にそって聖書を読み取らせているのであり、それが硬直した聖書解釈と神学を生み出している。アメリカの福音派の場合、福音派のSelf‐identityがいわゆる無誤説に基づく聖書信仰に寄りかかっており、それは、リベラズムとの対決の中から生み出されたものである。この保守派とリベラルとの宗教的二項対立が政治的に民主党と共和党の政治的二項対立へと繋がっている。これは、一件、宗教が政治に影響を及ぼしているように見えるが、政治システムに宗教が取り込まれた一種の市民宗教と化している状態でもある。それは、ある種の政治的価値が宗教的価値にすり替わる危険性を持つ。そして政治的決定(政策)にそって聖書を解釈してしまう危険性をはらんでいる。
 アメリカの福音派の場合、彼らのいう聖書的価値をLGBTQの問題や中絶問題に収斂して、その聖書的価値と経済問題諸要素となる、それがトランプの支持者層となって現れる。その結果が 先ほどの、「旧約聖書の創世記に記されるノアの方舟(はこぶね)の話から、神は虹を示し、人類を二度と大洪水で滅ぼさないと約束したから、海面上昇は起こらない」といったロバート・ジェフレス牧師の聖書解釈となる。この例などは政治的決定(政策)にそって聖書を解釈してしまうの典型であると考えられる。
 政治は権力である。そしてその権力は金と結び突きやすい性質を持つ。そのためしばしば権力は経済システムに取り込まれてしまう。そういった意味では、現在の資本主義社会は経済システムを全体性とし、その中に包括され政治システムも宗教システムも経済システムから分出していない。その典型がアメリカの福音派に顕われ出ており、それが環境問題に深刻な問題点となって現れている。

結語
 キリスト教の歴史は、「この世」の権力構造との関わり合いの中で形成されてきた。キリスト教はもともとは、ユダヤ教内の権力構造から迫害され抑圧されるところから始まり、ローマ帝国の迫害の下で広がって行った弱者の宗教である。それはキリスト教が、この世の権力から分出した存在であったことを示している。それは、キリスト教がまぎれもなく「この世」の権力の支配構造とは異なる神の国を打ち建ててきた証である。そして、その神の国が「この世」に広がりつつ影響を与えていく中でやがこの世の権力に取り込まれてしまっている現実がある。
 その意味では、本来のキリスト教は「この世」の権力構造からは分出しなければならない。しかし、この分出は「神の国」としての分出であり、キリスト教システムは本来「この世」から分出した存在である。にもかかわらず、現実には、その分出は私事化(神と私という個人的関係の強調)という形で表れている。そして、その私事化は、福音を「(個人的な私の)罪の赦し」として捉えてきた福音理解とそれを支える償罪論に基づく救済論に偏った神学に支えられている。
 環境問題は、「この世」の在り方を変える働きであり、社会構造の変革を迫るものである。その意味では、「この世」とは異なる全く新しい「神の国」の社会構造の下での環境問題の在り方を提示しなければならない。それは、個人の罪の赦しを語る福音からは生まれてこない。構造の変革であるから、現在の社会を覆う構造を突き抜けた新しい構造を示す必要があるからであり、キリスト教的視座から言えば「神の国」の構造が、「この世」にある外側の環境として「この世」に影響を如何に当与えるかにかかっている。つまりそれは、これまでの個人的な「罪の赦し」中心に神学化されたキリスト教理解ではなく、「神の国」を中心に神学化されたキリスト教理解が求めてられていることを意味する。




 

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