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ゴジラと聖書と物語神学

 書斎の机越しに目を挙げると、ゴジラのフィギアが目に飛び込んでくる。ゴジラだけでなく、モスラやキングギドラなど様々なフィギアが、私の住居には、書斎に限らずリビングにもあふれている。これらのものは怪獣と呼ばれるが、私が趣味として集めたものである。これら怪獣の始まりは1954年版の初代ゴジラにあると言って様だろう。怪獣は、恐竜や巨大なモンスターとは違う。怪獣は怪獣であり、怪獣の存在そのものが、人間の存在を危うくし、存在の根底を揺るがし、不安にさせ、ある種の神性をおびた畏れを感じさせるものである。
 その怪獣の祖である初代ゴジラが東京に来襲して街を破壊していく物語は、制作当時の人々の、核兵器に対する漠然とした不安や怖れといったものを如実に物語っている。同時にゴジラの物語は、不安と怖れの源に勝利し、平安な生を回復する生き方へと私たちを誘う。つまり、そこにはゴジラを制作した監督の本多猪四郎をはじめとする制作者のパトス(熱情)が読み取れるのである。その意味で、初代ゴジラは強いメッセージ性を持つ啓示的作品であると言えよう。
 その後、ゴジラは2016年の庵野秀明監督のシン・ゴジラまで二九作品(アメリカ版ゴジラおよびアニメ版ゴジラを除く)が製作された。しかし、初代ゴジラ以後、初代ゴジラのヒットを受けて。その多くの作品が商業的意図を持った興行的娯楽作品に堕した感も否めない。もちろん、それはそれで拝金主義に陥っていく日本の姿を物語る物語なのだが、それでもなお、ゴジラ対ヘドラやゴジラ対ビオランテといった啓示的作品も製作されてきた。そして、最新作のシン・ゴジラは東日本大震災を彷彿させるリアリズムのある怖れと不安を見事に物語化している。つまり、1954年の時代背景の中で物語られた初代ゴジラの描く人間の存在を脅かす恐れと不安の物語が、2016年のシン・ゴジラにおいて、その時代背景のもとで再び物語られているのである。
このようにしてみると、不安と怖れを物語として語るゴジラ映画の歴史には、まさに物語神学的展開がみられる。また、シン・ゴジラはゴジラ映画の教義学的存在だと言える。そこには、キリスト教における啓示の問題に通じるものがある。それゆえに、私は神の啓示を語る書(『今、ここに立ち現れる神-傘の神学普遍啓示論』2023年11月出版予定、『神かく語れりー傘の神学特殊啓示論』2024年出版予定)を書く際に宗教学的論述から始めなければならなかった。それはまさに、神という存在が、怖れを感じつつ、しかしその存在に引き寄せられる畏怖すべき「私はいる(אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμι)」としてしか「言い表すことのできない」ヌミノーゼ的存在だからである。
もっとも、このヌミノーゼ的存在は、人間の存在を脅かす存在ではない。むしろ、人間を存在者として存在させ、かつ人間を人間とする人間形成を導く存在そのものである。だからこそ、ゴジラとは違い、排除されるのではなく、求められるのである。いうなれば、ゴジラは罪と死の原理のもとにある怖れ、すなわち破壊と死の恐怖の物語であり、אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιは、命と創造の原理のもとにあって畏敬を産みだす存在なのであると言える。。
そして、このヌミノーゼ的存在であるאֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιを、我々がいかに認識し語るのかというのが、啓示の問題である。この問題に対して、教会は歴史的に、それを聖書に求めてきた。その聖書は、様々な文学ジャンルがある。歴史的書物もあれば、詩のような文学的ジャンルもある。さらには手紙と言ったものさえ含まれている。しかし、それら一つ一つが人間の生の営みから生み出されたものである。そして、それら一つ一つに、אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιの前に生きた人間の物語がある。その聖書の中にあるאֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιとの関わりをもって生きた人間の生の物語を通して神は語っている。そしてそこには、神の我々人間に対する熱いパトスが感じられるのである。
 だとすれば、「今、ここで」を生きるキリスト者一人一人の生もまた、神の語りかける言葉に応答し営まれた生であると言うことができよう。だとするならば、我々キリスト者一人一人の生もまた、神の啓示となるのではないか。然りである。それゆえに私は、キリスト者に、そして何よりも私の妻や子供たち、孫たち、そしてすべての人に伝えたい。あなた方の存在は、

あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです。(コリントの信徒への手紙二・3)

と言われる存在であり、あなた方を通して神が現れ出るのである。だからといって、我々キリスト者の生が書き記されて残されるとき、それが聖書となるか、あるいは聖書と同等に扱われるべきかというと、それは否である。なぜならば、聖書は教会の伝統の中で正典(canon/基準)として受容されたものだからである。確かに聖書に記されたものは、イスラエルの民の歴史とイエス・キリストの歩み、およびその教えに基づき歩んだ最初期の教会の歴史である。しかし、それらを通して表されたものは神の民の生き方である。その聖書が教会の伝統の中で正典(canon/基準)として受容されたのであり、個々の信仰経験は、この正典としての聖書によって検証される。それゆえに聖書は、まさに正典として教会と教会に繋がるキリスト者一人ひとりの生き方を制し、導く神の語りである。

 一人一人の信仰とその信仰に基づく歩みは、神の語りかけに対する応答によって築き上げられる。その神の語りは、様々な形で我々に訪れる。そして、その語りかけは「私」に対して語りかけられる神の「神かく語れり」である。その意味において、我々は、神に語りかけられている。そのような神の語りかけの中で、我々は直接神に語りかけられたと感じる経験をすることがあるかもしれない。事実あるであろう。私自身、自らの信仰生活の中で、何度かそのような経験をしたことがある。そして、その語りかけられた言葉は、必ずしも聖書の言葉どおりでないこともあるであろう。それは、ある種の神秘的な宗教経験といってよい。
宗教にとって、宗教経験はその人の信仰の核となる極めて重要なものである。そしてだれにでも、またいずれの宗教にも、何らかの宗教経験といったものがある。それゆえに、神に直接語られたと感じるような神秘的な宗教経験を否定はしない。しかし、それがどんなに神秘的な経験であったとしても、それは私という個人の特殊な状況のもとでの個人的なものであり、キリスト教一般に横たわる真理として還元すべき普遍的なものではない。また、それがどんなに個人に対する特殊な経験であっても、その経験は絶えず正典である聖書の言葉に照らし合わせて内省され、吟味されなければならないであろう。なぜならば、経験は知覚されるものであり、知覚は認識に至るのであるが、その認識は過去の出来事によるからである。そしてその過去とは、聖書に物語られた過去なのである。
神が私に語った。そのような宗教的経験の正当性が、聖書のある部分だけに寄りかかっていたり、聖書の言葉が持つ時代的背景や社会的状況といったものを考慮に入れないで、その言葉の表面的な意味だけに寄りかかっているとするならば、その宗教経験は注意して批判的に内省すべきである。
神の啓示は、我々に謙虚になることを求めている。どんなに明確で強い体験をしたとしても、謙虚になって心を静め、聖書の言葉に耳を傾け、聖書が物語る物語に学ぶことが大切である。そして聖書という書物が語る物語を通して語られる神の言葉に学ぶということなしに、自らの宗教経験を神の啓示とするのは危険である。それは、自らの主観を絶対化することであり、自らを偶像化する行為である。そして、私たちが読むべき聖書が語る物語は、神の民の生の物語であり、神の民がイエス・キリストというお方に結実する神の像へと実を結んでいく歩みの物語であって、その物語が私たちに人生の歩みに結実するために記された物語なのである。

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