イタリア詩の技法

はじめに


noteというやつに今まで自分の備忘録代わりと思ってラテン語やギリシャ語に関するいくつかの「ノート」を書いたのですが、ギリシャ語ラテン語というのは今現在自分がまだ初学者のものであり、よく考えれば自分の本来の専門だったものについて書いてもいいのでは、と遅まきながら気づいたのでこんなものを(飲酒しつつ、酒のつまみ代わりに)書くことにしました。
もともとの専門とは言え、研究の道からは早々に撤退した身、しかも三十年以上前に学んだことを思い出しながら書いたので色々間違いがあるかもしれません。
またちゃんとした専門家の人もいると思うのですが、一つにはかなりマイナーな分野であること、もうひとつには「イタリア語入門」みたいな本には書いていないし、かといって専門家の論文は素人にはわからないだろうし、その中間、つまりイタリア語をちょっと知っている人向けの(日本語で書かれた)イタリア詩の入門があってもよいかな、というのが執筆の動機です。
まずは概説から書きます。気が向いたら後日、いくつかの詩を実際に分析してみます。
 



§1 イタリア詩を特徴づけるもの


 ここでいう「特徴」はイタリア語の詩を他の近代語、またはギリシャ・ラテンのような古典語の詩と比べての特徴ではありません。そうではなくイタリアの散文と比べての特徴です。したがって以下に述べる特徴を「それ、イタリア語だけじゃなくて、英語の詩も同じだよ!」というような反論はお門違いですので為念。
また現代詩のような自由詩はここでは取り扱いません。あくまでも定型詩の話です。
 さて閑話休題。イタリア詩をイタリア語の散文と比べて特徴づけるものは以下の3点です。
(1) 1行(verso)あたりの音節数が定まっている(isosillabismoと呼ぶ)。ただしすべての行が同じ音節数とは限りません。すべての詩行が11音節というような詩もあれば、11音節の行と7音節の行が交互に現れるような詩もあります。または11音節の詩行が続いたあと今度は一転して7音節のやや短めの詩行が続くようなタイプもあります。いずれにせよ、1行ごとの音節数に一定の規則があり、これが一番の特徴です。
(2)脚韻(rima)。各行の最後の単語のアクセントの置かれた音節から後ろが同一の2つの単語は「脚韻を踏んでいる」と言います。ほとんどの場合、何らかの脚韻が規則的に踏まれますが、どういう脚韻にするかには詩人に自由があります。さすがにラップのようにすべての行が同じ韻では美しくないので、ABABABのような韻であることもあれば、ダンテの神曲のようにABABCBCDCのようなやや複雑な韻になることもあります。
(3)アクセント。(1)に述べたようの1行の音節数のルールさえ守られていれば、あとはどういう詩行にしてもよいわけではありません。その1行の中で何音節目にアクセントが来るかについてはある程度のルールがあります。この点は相当慣れないと感覚がわかりにくいですが、行のなかのアクセントの落ちる音節の醸し出すリズムによって、詩を読み慣れたネイティヴスピーカーはいちいち音節数を数えなくても(1)に述べたような1行の音節数を感じ取るようです(正直、私レベルではその域には達していませんが、それはわかるような気はします)。
 



§2音節数


ここからは§1で述べたそれぞれの特徴について少し詳しく考察していきます。一番の特徴が詩行あたりの音節数なので、一番解説が長くなりますがまずこれから見ていくことにします。
 
2-1 決められているのは音節数ではない。
1行あたりの音節数が決められていると先程書きましたが、実はこの表現は不正確です。正確には最後のアクセントの位置までの音節数が決められていると言うべきです。
どういうことでしょうか。たとえばイタリア詩でダントツ一番使われている「11音節の詩行」(endecasillabo)を例に取ります。後述するようにダンテの神曲やペトラルカの多くのソネットのように多くの古典的な詩は1行=11音節という意味のendecasillabo(endecaはギリシャ語で11を表す)で書かれていますが、この名前はじつはちょっとtrickyです。正確には11音節の一つ手前の10音節目に最後のアクセントが来ることを要求はしていますが、その音節のあとはどうでもよいのです。
ただ、イタリア語の多くの単語は後ろから2つ目にアクセントがあり、したがって、最後のアクセントが10音節目だと、必然的にその行は11音節になるだけの話です。
逆に稀ですがイタリア語には最後の音節にアクセントがある単語があります(たとえばcittà「街」)。もしもこの単語が行末に来るような詩行を書けば、必然的にその行は10音節になる理屈です。
逆にうしろから2つ目にアクセントがある単語(たとえばconvincere「説得する」-vi-のところにアクセント)が詩行末に来ればその行は12音節になる理屈です。
下にまとめます。数字は音節数を表し、丸がついているところがアクセントだと思ってください。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 ⑩ 11
1 2 3 4 5 6 7 8 9 ⑩
1 2 3 4 5 6 7 8 9 ⑩ 11 12
この3種類がすべて「11音節」として認められます。それぞれに名前もついています。
 
1番上に示した一番普通の詩行はendecasillabo piano
2番めのいっけん字足らずみたいな詩行はendecasillabo tronco
3番目のいっけん字余りのような詩行はendecasillabo sdrucciolo
 
とそれぞれ呼びます。
 そもそもこの11音節の詩行はギリシャ・ローマの古典の時代には存在していなくて、中世初期、初めて俗語で詩が書かいたプロヴァンス地方のいわゆる「吟遊詩人」たちが使用したdecasillabo(10音節詩)のパクリによって生まれたものなのです。このプロヴァンスの10 音節も正確には1行が10音節でなければいけないというルールではなく、最後の音節が10音節目に来なければいけないというルールだったのですが、たまたまフランス語の単語には最後の音節にアクセントがある単語が多く(たとえばplaisir「喜び」という仏語は-sirにアクセント)、最終アクセントが10音節目だと、必然的にその詩行も10音節になるわけです。
 ところが同じルールをイタリアの中世の詩人(イタリアでも11~12世紀くらい、ダンテやペトラルカは14世紀なのでそれより2~300年ほども前、から俗語で詩が書かれ始めるわけですが)がパクってイタリア語で詩を書き始めたとき、前述のようにイタリア語の多くの単語は後ろから2つ目の音節にアクセントがある単語が多いという都合から、多くの詩行が11音節になったわけです。
 かなり偶然の産物と言えるわけですが、そこからイタリアのみならずヨーロッパ全土を見ても中世〜ルネッサンス期の最大の傑作が生まれたわけなので、不思議なものです。
 


2-2 散文の音節は詩の音節と必ずしも一致しない。
 日本の和歌の場合、原則は5-7-5-7-7の三十一文字で書くとしても、かなり広範に字余り、字足らずの歌が存在するように思います。それに対して、イタリア詩に関しては2-1に述べた音節数はほぼ確実に守られます(もちろん定型詩の話です)。
 しかしそんなにルールを厳密に守っていたら詩なんて書けるはずがないので、いろいろ「ズル」をする術があります。そのズルは大きく分けて次の3つです。
(1) 語頭の母音(たとえばintendoと綴る代わりに’ntendoとする)、または語末の母音を削る(たとえばcuoreまたはcoreと書く代わりにcorとする)。こうすれば音節を一つ節約できるわけです。語頭の母音を落とすことをaferesi、語末の母音を落とすことをapocopeと呼びます。また単語の内部でも同様のことが行われることがあります。lettereと書く代わりにlettreと書くようなタイプの省略です。これをsincopeと呼びます。ただしこのタイプの母音省略は好き勝手になされるわけではなく、何らかの言語学的な根拠(いいわけ)に基づいてなされます。たとえばlettereをlettreと書いて1音節削って帳尻を合わせた詩人はこんなふうに言い訳するでしょう。「いや、ズルはしてないよ。フランス語風の綴りにしたんだよ!」
逆もあります。本来はないはずの母音を語末につけて、1音節無駄に稼ぐやり方です。たとえばイタリア語の二人称単数の人称代名詞はtuですが、tueのような形を詩文の中ではよく見かけます。1音節増量です。
(2)ある単語の語末が母音で終わり、それに続く単語の語頭が母音で始まるときにはその2つの母音を1つの母音とみなすか、2つの母音とみなすか、融通を利かせることができます。たとえばIl gatto è nero.「その猫は黒い」という文があるとして、その太字部分。o+èはそれぞれが独立した2つの母音と考えることもできるし、合わせて一つの母音を形成していると考えて1音節と考えることもできます。2つの母音連続を1つの音節とみなすのをsinalefe、逆に1つの音節(つまり二重母音)と見なすべきものを2つに分けて読むのをdialefeと呼びます。
(3)これも似た話ですが、今度は1つの単語のなかの連続する2つの母音を一つとみなすか2つとみなすかも融通がききます。たとえばlui「彼」はふつう1音節とみなしますがむりやり2音節とみなすことができます(dieresiと呼ぶ)。その場合、ドイツ語のウムラウト、フランス語のトレマみたいな記号をluïのようにつけます。逆にpaura「恐怖」の-au-は二重母音を形成せず、ここを別々の音節、つまりpa-ú-raのように3音節単語(-u-にアクセントがある)として考えるのですが、-au-を無理やり1音節と考えることもできます。これはsineresiと呼びます。その場合、auの上に弧のような記号をつけるのですが、残念ながらパソコンではそれが入力できないので諦めます。
 余談ですが、こうした記号は詩人自身が書くことはないそうです。編集者や構成の文献学者が1行の音節数の整合性を取る為書き加えるそうです。パズルみたいです。
 また少し重要な話ですが、(2)と(3)を読んで、二重母音ということだなと思った人もいるかも知れませんが、音声学でふつう言うところの「二重母音」と詩行の音節数を数えるときに連続した2つの母音を1つみなすかどうかの問題は全く別物です。二重母音とは異なるルールが存在します。相当に煩雑なルールなので「補遺」として最後にまとめておきますので、とりあえずそれは後回しにしてこのまま読み進めてください。
 
2-3何音節の詩行が一般的か。
 詩行の長さはいろいろあります。多分一番短いものは5音節です(正確にはこれも、最終アクセントが4音節目、という意味で)。多分一番長いのは7音節で切れる2つの部分を合わせて1つの詩行とする、つまり14音節のものかと思います。
 けれども圧倒的多数は先程から紹介している11音節と、あともう一つ挙げるなら7音節(settenario)です。それには歴史的な経緯があります。11音節はプロヴァンス詩のパクリというのは前述のとおりですが、さらにもう一つ言うと、プロヴァンス詩の1行は10音節で、さらにそれが4+6または6+4の2つに意味の上で(または少なくとも単語の切れ目という点で)分かれるのが通例でした。そのひとつのパーツである6音節に、前述の事情が加わればイタリアではパクった挙げ句7音節の詩ができるのは当然という理屈ですね。
 イタリア詩の創始者と言っても過言ではないダンテが俗語論のなかで「真面目な詩は7音節、11音節以外認められない」と明言し、それを引き継いだ(ソネットの発明者である)ペトラルカも大多数の詩作を11音節で行い、ペトラルカの影響は甚大で、その後数百年間「ペトラルキズモ」と呼ばれるペトラルカのエピゴーネンたちの列が続いたのですが、そのなかで「エンデカシラビ(11音節詩行)」といえばほぼ「詩」のシノニムになるほどにまでなったのです。
 さてそれでは一つ例を挙げます。イタリア人なら誰もが諳んじることができる神曲の地獄篇の冒頭の1行です。
 
Nel mezzo del cammin di nostra vita
 
これを音節に分けてみます(丸は最終アクセント)。
 
Nel – mez -zo – del – cam -min – di – no - stra – vi -ta
 1   2  3   4  5   6  7  8   9  ⑩ 11
 
この行は実に素直に音節に分けられます。散文の音節と詩の音節にほぼ懸隔が認められない行です。でもあえて言うならcammino「道のり、道程」という語がcamminという形で使われ、つまり最後の母音が落とす(apocope)という技法を使うことで音節を一つ減らして帳尻を合わせています。
 
それでは今度は、同じくイタリア人ならみんな諳んじられるペトラルカの詩集の最初のソネットの1行目を見てみましょう。
 
Voi ch’ascoltate in rime sparse il suono
 
これを音節に分けてみます。
 
Voi- ch’as – col – ta -tein – ri -me – spar – seil – suo -no
 1   2   3  4  5  6  7   8   9  ⑩  11
 
2箇所、単語の語末の母音と次の単語の語頭の母音をくっつけるsinalefeを使って、本来は13音節になってしまうものを11音節にしているのがわかります(もっと言うと、ch’ascoltateは本来はche ascoltateであるべきところで、ここでも音節を一つ節約している(apocope)ので、本来は14音節だったわけです)。
「ズル」と書きましたが、こうした詩行が「ズルをしている」劣ったものと見なされることはありません。また前述のように詩人はどのように11音節として読むかの手がかりは与えてくれないので読む側がそれを解読する責務があります。前述のようにリズムで自然と11音節を体感できる詩に慣れたネイティヴはよいのですが、そうでない人は本当は詩を読むときにちゃんと音節を分析して読むべきですよね。
 



§3アクセント(ictus)


3-1アクセントとictus
 まず理解しなければいけないのは、辞書に載っているアクセントがすべて詩の中でもアクセントの落ちる音節と認められるわけではありません。たとえば1音節の人称代名詞ioやtuo、冠詞ilやla、前置詞su、接続詞che、などは文脈上の必然性があるとき以外はアクセントはないものと扱われます。形容詞でもun buon uomoのbuonのように指示性が低いようなものはアクセントのない単語として扱われます(ルールは煩雑で私もよく知りません。いつもヤマカンで乗り切ってます)。
また、前述のような帳尻合わせのための「ズル」なのですが、本来のアクセントと違う位置に強勢を置いて読まないとルールから外れてしまう場合、本来のアクセントではない場所にアクセントがあるかのように読むことがあります。
そういうわけで、言語学上のアクセントと詩の中のアクセントは必ずしも一致せず、後者を前者と区別して区別してictusと呼ぶことが多いです(この駄文でも以後、アクセントと言わずictusと呼ぶことにします)。
3-2 どこにictusが落ちるか
 詩行のなかでは必ずictusのあるべき場所や、あったほうが良い場所が定められています。私はendecasillabo以外はよく知らないのでendecasillaboに話を限定しますが、ictusに関するルールは以下のとおりです。
(1)再三述べたように、10音節目には必ずictus。これを守っていないものはそもそもendecasillaboと呼べません。
(2)さらに4音節目か6音節目の少なくとも片方(両方でも可)にictusがあることが強く求められています。前述のようにプロヴァンス詩からの伝統を引きずってのことです。そしてこれも前述のようにどちらにもictusがないと、詩を読み慣れているイタリア人は逆にかなり混乱するようです(「あれ、これ本当にendecasillabo??」みたいに思うのでしょうね。我々にとってそれに近い感覚は、たしかに合計したら31文字だけれど57577になっていない和歌を読んだときの違和感みたいなものでしょうかね。。。)。たしかペトラルカが生涯にものした大量の詩のなかで4と6のいずれにもictusがない詩行はひとつもないとどこかで読んだ気がします。
4つ目の音節にictusがあるendecasillaboをendecasillabo a minoreと呼び、6つ目の音節にictusがあるendecasillaboをendecasillabo a maioreと呼びます。
(3)さらにプライオリティー的に第3位のictusもあるらしいです。たとえば10以外に6音節目にictusがある詩行はさらに補助的に2音節目にictusがあるのが好ましい、とか。煩雑すぎるルールなので私もよく覚えていませんし、さすがにここはどうでもよいでしょう。
 
先程挙げた2つの詩行に最終アクセント以外もふくめすべてのictusに丸をつけてみます。
 
Nel – mez -zo – del – cam -min – di – no - stra – vi -ta
 1  ②   3  4   5  ⑥   7  ⑧  9  ⑩ 11
 
Voi- ch’as – col – ta -tein – ri -me – spar – seil – suo -no
 1  2   3  ④  5  ⑥  7   ⑧   9  ⑩  11
 
天才詩人たちですから、考えることもなくできるのでしょうが、見事なものです。ダンテの有名な言葉があります。「私は詩の着想に苦労したことはあるが、思いついたイメージを詩文にするのに苦労したことは一度もない(大意)」。さすがです!
 
 



§4 脚韻(rima)


4-1 脚韻は中世の発明
 脚韻を踏んでいると如何にもリズミカルで、散文との差異が生じ、その面でいかにも詩の特徴という感じがします。詩のことを韻文と呼ぶのもそのためであろうし、ラッパーの人たちも脚韻を踏むのは大好きです。それ故、個人的な話で恐縮ですが、ヴェルギリウスやオヴィディウスのようなラテン詩を読むようになったときに、古典語の詩には脚韻がないことを知り、かなりビックリしました。
 ヴェルギリウスなどを読んでいると、不規則に頭韻(並んだ語の語頭のシラブルが同一)は登場するのですが、脚韻という概念というかそれに対する感受性は全く存在しないように思えます。実際そのとおりで、脚韻はプロヴァンス詩人たちの発明で、カヴァルカンティのようなイタリアの中世の詩人たちを経て、ダンテ・ペトラルカに受け継がれたものです。
4-2 脚韻の役割と種類
脚韻は前述のように詩にある種のリズムを与えてくれる感じがします。それはそのとおりなのですが、もう一つ重要な役割があると言われています。詩文は何行かでひとまとまりをつくる(strofaとかstanzaと呼ばれます)のですが、そのなかで規則的な脚韻があれば、そのひとまとまりが強調されるという役割です。
例えばダンテは神曲を3行ごとのstrofaで書きました(terzina dantescaという名前までつけられています)。そのなかでABA BCB CDC DEDのような韻を踏んでいます。そうすれが否応なく3行ごとの区切れが意識されますよね。印刷術がなかった時代、または詩を耳で聞いていた時代にはそれは我々が思う以上に重要だったはずです。
 そして脚韻のパターンは無限にあり、ある意味いちばんルールがユルイ部分です。前述のダンテの韻はrima intrecciataと呼ばれます。intrecciataは「三編み」という意味ですが、まさに三編みですよね。もっと単純なABABABABのような韻はrima alternativa(交代交代の韻)のように呼ばれています。
記号で書くとわからないという人のために神曲地獄篇の最初の6行(strofa2つぶん)を引用します。意味はわからなくても太字になった各行の最後の音節にだけ注目してください。
 
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura
ché la diritta via era smarrita.
 
Ahí quand a dir qual era è cosa dura
esta selva selvaggia e aspra e forte
che nel pensier rinova la paura !
 
最終アクセント(つまり10音節目)から後ろに記号で言えばABA BCBのような規則性が見て取れるはずです。神曲は地獄篇、煉獄篇、天国篇と3部構成で全部で14000行ほどから成り立っています。この脚韻がその間一回も途切れることなくずっと続きます。それを考えるとき前述のダンテの言葉はますます我々を震撼させます。
ところで余談ですが、この引用の5行目selva selvaggiaという語句が見えると思います。これは逆に頭韻です。こちらは詩のルールと言うより不規則に現れる詩のテクニックであるわけですが、脚韻だけでなく頭韻も絡めあわせて複雑な構造物を作っているわけです。本当にすごいです。
4-3 「簡単な韻」と「凝った韻」
脚韻で大切なのはABABABかABABCBかとか言うことより、その中身です。イタリア語はおそらく英語などより脚韻を踏むだけならラクな言語です。たとえば「愛する」はamare、「歌う」はcantare、「眺める」はguardare、といったように品詞によってだいたい語尾が同じ形をしているからです。でもそういう子供でもできる韻はrima facile「簡単な韻」と呼ばれます(それが故に価値が低いということにはなりませんが、少なくともそこに何らかの意味を感じ取ることはないでしょう)。
先程の神曲の中で一番つまらない韻はoscuraとduraでしょう。oscuraは「暗い」という形容詞、duraは「つらい、難しい」という形容詞。どちらもそれぞれ直前のselva「森」、cosa「こと」という女性名詞を修飾するためその形容詞自体も女性形になっています。それに比べればvita「人生」とsmarrita「迷った」のほうがまだましです。少なくとも品詞が異なりますから。
でもこの6行には特筆すべき脚韻はありません。それでは逆に読者がそこに何らかの意味を感じ取らずにはいられないような脚韻とはどのようなものでしょうか。
韻を踏んでいる語同士にはある種の緊張関係が存在します。緊張関係というのがわかりにくければ何らかの結びつきが存在すると言い換えてもよいでしょう。その緊張関係ないし結びつきを持つ韻を踏む2語がたとえばimperatore「皇帝」/ traditore「裏切り者」とかpazzo「キチガイ」/ cazzo「オチンチン」とかだったら?ダダイズムかなにかわかりませんが、なんか「すげー!」って感じはしますよね。良いか悪いかは知りませんが。こういう韻は何らかの意味を内在させている韻です。
もう少し高尚かつ技巧的な韻もあります。先程の引用の地獄篇の少し先、ダンテが暗い森から少し陽の当たる丘に登ろうとすると豹のような獣が現れダンテの行く手を遮る場面があります。その3行を紹介します。
 
e non mi si partia dinanzi al volto,
anzi’mpediva tanto il mio cammino,
ch’i’fui per ritornar più volte volto.
(Inf. 34-36)
 
1行目は「(豹が)私の顔の前から去ろうとせず・・・」という文でvoltoは「顔」という名詞です。2行目に「私の道を塞ぎ」と書かれたあと、3行目「なので私は後戻りしようと何度も後ろを振り向いた」という文で、そのなかでfui voltoという述語動詞としてここではvoltoが使われています(volgereは「振り向かせる」という動詞でそれの受け身(fuiは英語のbe動詞に相当、voltoはvolgereの過去分詞)。しかも太字だけが同一であるだけでなく完全に綴りの面からしたら完全に同一単語ですから。かなり技巧的でここだけみてもちょっと唸ってしまうレベルです。
構造主義的な文学理論が盛んだった時代には、「あまりこうした韻に過度の意味付けしてはいけない」と言いながらかなり過度に意味づけしていたように思います。なんらかの傾向を探ったりという程度はよいのでしょうが、牽強付会的な解釈は慎むべきですよね。
 



<<補遺>>


連続する2の母音を一つの音節と見るか2つの音節と見るかのルールはそうとう煩雑です。音声学上の「二重母音」のいうものと重なり合うところもありますが、まったく別物と考えたほうが間違いは少ないかもしれません。
以下に基本的なルールを列挙します。
①連続する母音のどちらにもアクセントがない場合
この場合は一番簡単で、1音節とみることも2音節とみることも全く自由です。たとえばダンテの恋人の名前はBeatríce(イタリア語では語末以外にはアクセント符号をつけませんが、便宜上ここではアクセント符号をすべてつけます)です。-ea-の部分はeにもaにもアクセントはないので、ここを1音節と考えることも2音節と考えることもできます。2音節と考える場合はBeätriceのように表記されることが多いですが、前述のように編集者か読者にこれを考える責務があります。
②連続する母音のうち1つめの母音にアクセントがあり、それにアクセントのない母音が続く場合
たとえば一人称単数の人称代名詞íoを例に採ります。詩行のなかでは1音節と考えますが、万が一この単語が行末に来た場合は2音節と考えます。前述のverso piano(つまり詩行の最後から2番めの音節に最後のictus)を平易に作れるようにするための便法なのでしょう。もちろん前述のsinalesiやdialesiという技法としてこの原則を詩人は破ることはできます。あくまでも一般的なルールということです。
③逆に1つ目の母音にアクセントがなく、2つ目の母音にアクセントがある場合
まずその1つ目の母音がiかuの場合はこれを半母音と扱います。たとえばiériはyériと書いてあるのと同等とみなしてください。したがって-ie-は2つの母音というより一つの子音とひとつの母音から形成されていると考えられ、当然の結論として1音節扱いです。おなじことがuにも言えます。uóvoはvovoと書いてあるのと同等とみなしてください。したがって-uo-は<子音+母音>とみなされ当然1音節です。
逆にそれ以外の母音aかeかoにアクセントがなくそれにアクセントのある母音が続くときは2音節です。たとえばpaúraの-au-は2音節です。これを無理矢理に1音節と考えて詩を書く自由は詩人にはありますが、前述のように編集者は大きな弧のような符号をauの上につけて、注意を読者に促すことになります。
他にも色々なルールがあるようですが、私自身もよく知りません。実際の詩行で音節を区切ってみて、結果論的にうまく行くように区切れればそれで十分に思えます。





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