女は生まれながらに女なのか
中島義道の『純粋異性批判』を読み、コミュニティーメンバーとテキスト上で女の子扱いとはどのような行動なのかという話をして、結局女ってなんなんだろうと考えた。
女という言葉は現代には追いついていない。見る人、使われる文脈によって解釈のしようが他の多くの言葉に比べて多様で複雑である。たんに女と言っても、生物学的な分類による女(セックス)と、社会的な性差を表す女(ジェンダー)の区分があるが、これらの区分自体もはっきりとしたものではない。前の記事では女と男の違いは性染色体の違いだと書いたが、XXY染色体を持つクラインフェルター症候群など染色体の違いだけでは男を女を峻別できない例はある。ジェンダーでいう「社会的」の意味も地域やその集団によって様々である。さらに言えば、生物学などの学問自体も社会や文化の中で生まれたものなので、医学や生物学を信じない人間にとってはセックスとジェンダーの区分も通用しない。
この記事では女という言葉の解釈の多様さに意識して書いた。フェミニズムの界隈ではよく論争が起こるが、その多くが男、女という言葉の使われ方が共有されていないまま議論することから生じるものに見受けられる。だから男、女という言葉を使うときにはとても気を遣う。
女は生まれながらに女なのか
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』(1949年)で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と語った。女性は生まれた時から、女性としての役割を持つのではなく、社会や文化が要請することで女性としての役割が形成されるという主張である。
社会や文化が要求する性別による役割は例えば女性は子どもを生んで育てるのが基本的役割でそして男性は、家族を外敵などから守るのが役割というものである。現代では、男性も育児をするのが当たり前であることや、女性も育児だけに専念するのではなく、働いてお金を稼ぐことが求められる。しかし、女性の子供を産み育てることに向いており家庭という空間がふさわしいという風潮は残り続けている。
ボーヴォワールのいう「女」は社会的な性別であるジェンダーとしての女である。社会的な性差は別に生物学的に決まっているのではなく、人間間の約束事である。だから、人間同士の合意で変えていくことができる。このようにしてボーヴォワールは女性の生物学的な宿命に対して否を突きつけた。もちろん生物学的な性差は存在する。例えば子供を産むことは身体が女性として生まれた者にしかできない。だからと言って子供を育てることは女性にしかできないことではない。それは男性にだってできることである。つまり、誰が子育てをするかは社会の間で決められた約束事であって、生物学的に決まっていることではない。一応補足するとボーヴォワールは女性の育児の役割のみ主張したわけではなく、政治などの公的な場への参加の権利を主張して参政権運動を展開した。「ジェンダー」という社会的な性別を見出したのがボーヴォワールの功績である。
「ジェンダー」という言葉を獲得したことで、性差に関する生物学的な宿命論から逃れることが可能になった。「男はこうだ。女はこうだ」という言葉を封じ込め、それは自分の合意で変更して構わないということが言える様になった。そう言った破壊力をジェンダーという言葉は持っている。
だが、子育ては本当に社会が要求して女性にさせているのだろうか。社会がそれを女性に要求しないならば、どっちがやっても良い、もしくは分担してやるということになる。
ここで社会を持たない人間以外の動物に目を向けてみる。例えばヒグマの子育てはメスのみが行い、オスは子育てに一切参加しない。また、コウテイペンギンはオスが子育てをするのが有名である。コウテイペンギンのオスはメスが生んだ卵を足の上に乗せ、約2ヶ月飲まず食わずで温め続ける。これらの動物は社会を持たないのだから、育児分業はオスメスのどちらが、もしくは両方が子育てするのかが社会の要請によって決定されているのではなく生物学的宿命として本能にプログラムされているはずだ。つまり社会を持たない自然界では明確な男女間の役割が存在する。
私は女性が家事労働を担う存在でなければならないと言いたいわけではない。生物学的には子育てをするようにプログラムされているが、それが、意識の獲得、そしてジェンダーという言葉の獲得によって上書きされている可能性があるということを言いたいのである。
私の疑問はこうだ。ジェンダー概念の力が増大してゆく中で身体的な性差までも塗りつぶしているのではないかということだ。つまりあらゆる宿命をジェンダーに丸投げして良いのかということだ。
例えば、女性の胸の大きさというのは、男性にはない明確な身体的性差である。しかし、それは自分が性的に見られたいかの有無に関わらず、男性の求める理想に縛られるということからしばしば悩みの種になる。男性の身長も同様に、女性の視点から、あるべき「理想の身長」というのが要求されている。人の好みというのは当人同士の了解の元に好きに選べば良いことである。しかし、そうしたくない人にまで、またそうしたこととは無関係な人にまで過剰に外見が要求されるのは、あきらかに問題であり、それは是正すべきことである。
しかし一方で、バストの大きい女性を好むことや、身長の高い男性を好むという好みまでを否定することはできない。そして、このような好みというのは社会によって規定されているものでもない。孔雀のメスは飾り羽の模様が美しく派手なオスを選ぶ。それは社会の要請ではなく、生物学的に決められているからだ。人間も同じようなものだろうと思う。なぜなら、バストの大きさは生存率に影響を及ぼしているとは思えないからだ。このような生物学的要素にまでジェンダーのメスを入れるべきかには注意深くなる必要がある。
誕生時に女性としての性別を与えられてそれに対して外れていると感じない女性というのは、女性であることのリスペクトを感じると好意を感じるだろう。
女性は男性よりも特別扱いされると大変喜ぶ傾向がある。特定の女性にお金をかけるとその女性はとっても喜ぶ。女性に対する特別扱いというのはその人を女性として扱うことから生じる行動であるため、その人に女性としての役割を要請している。しかし女性が特別扱いに喜ぶのは社会に要請されているからだろうか。決してそうではないだろう。また、社会は女性に少女漫画を読むことを強制していない。けれど、多くの日本人女性は少女漫画で胸を躍らせるのだ。何が言いたいかというと女性として生まれそのことに違和感を覚えない女性は女性であることを社会に要請することもあるのだ。これは男性的な発想であると自覚しているが、女を女にしなければそれはそれで女にとって不幸なのではないか。
つまらない結論だが、女というのは生物学的な女の要素と、社会的な女の要素の両方が組み合わさっている。どちらか一方ではない。けれど、生物学的な女の要素を無視していないか、再び目を向ける必要があるだろう。
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