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道を歩くこと

道というものは、何者かが何かをした結果できた跡だ。だから、道を歩くということは、以前何者かがしたことと同じことをすることである。しかし、面白いことに、道というものは変化する。分かれ道ができたり、近道ができたり、道を歩く者によって洗練されてゆく。まるで生き物の進化みたいだ。

道がなければ、私たちは、混沌とした世界を自分でかき分けてどうにか生き延び、同じ間違いを繰り返し、同じ解決法を再開発しながら進まなくてはならなくなる。

道というのは結果だから、残してゆくには使わなければならない。たとえば、伝統文化というのは、保護ができない。なぜなら伝統文化というのは道だからだ。使うことで跡が残り、使われなくなれば消滅する。保護というのは原理的にできない。使われるか、使われないか、それだけである。でも、伝統文化が消滅の危機にあるということは、道の性質上、必要とされる場面が少なくなったということだ。だったらなぜ、あらゆるとことで、伝統文化の継承が叫ばれているのだろうか。

それは道というのは経験の外部ストレージみたいなものだからだ。これは記憶媒体としての道の唯一性で、重要な点だ。経験だから、書き言葉や知識などの情報のように、保存が簡単ではないし、一度、失われてしまうと、再び作り出すのは難しい。

道は経験の跡だから、長く残った道には、先人の情熱が詰まっている。本書では、道が動脈という比喩で表されている箇所が数箇所あるがまさにその通りで道には熱がある。だから道を歩くというのは面白い。

私は歩くことが好きだ。歩くことの利点はゆっくりであるというのも、もちろんあるが、足元を見れることだと思う。自転車も自動車も電車も飛行機も、地面に直接、足をつけない。地面に足を着いて移動する手段は歩くことだけだ。歩くことで、普段どれほど多くのことを見落としているかに気づく。

道を歩くということは、先人の経験を受け継ぐと同時に、その行為自体が、後人に経験を残すことだ。もうすぐ20歳、私は今後どのような道を歩んでいこうか。



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