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退屈な物語を今日もまさぐる

この記事はJLAB基礎教養部の活動で作成したものである。蜆一郎さんに紹介していただいた國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」と 蜆一郎さんの作成した記事を読み私が素朴に感じ、考えたことを記載している。

最近とても暇である。2023年の4月に北海道大学の農学部生物資源科学科に進級した。現在、週に授業が8回しかない。そのうちの1回は農場実習といって、畝にマルチシートを貼ったり、田植えをしたり、リンゴの摘果をしたりしている。これまでの人生の中で一番のほほーんとしている。大学生は人生の夏休みとはよく言ったものだ。

遊びから退屈を探る

遊びをする動機として退屈から逃れるという側面がある。すなわち、遊びの定義を参照すれば、退屈状態の人間が求めるものが見えてくるはずだ。

ロジェカイヨワは遊びの定義を以下のような活動であるとした。

1) 自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2)隔絶された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間の時間の範囲内に制限されていること。
3)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
4)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5)規則を持った活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
6)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるといいう特殊な意識を伴っていること。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(講談社学術文庫)p37

ざっくりまとめると、退屈状態の人間は、いつでも止めることができて、現実とは異なる隔絶された時空で、無駄な、結果が未確定の活動を求めている。ここで興味深いのが「無駄な」という部分。すなわち定義の4)の非生産的活動という部分だ。未確定で現実とは異なる隔絶された時空という要素は、非日常の刺激を増大させるファクターとして納得がしやすい。しかし、非生産的活動である必要があるだろうか。

本書の暇と退屈と系譜学の章に人間は定住生活をしたから、退屈を回避する必要に迫られるようになったと書いてあった。行き場を無くした己の索敵能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求める必要になったと。一方、カイヨワは遊戯者は日常生活から遠ざかることを求めて遊ぶという。遊びは本質的に生活の他の部分から分離され、注意深く絶縁された活動である。すなわち、遊びには、遊戯者に大脳を刺激するだけでなく、非日常を感じさせる必要がある。これは、まさに移動生活をしてきた人間が現在いる場所から離れて、新たな場所を見つけようとする欲求によるものだ。

定住生活では何かを生産することが求められる。定住生活を始めたばかりでは、農作物であった。現在では、お金を生産することが求められる。つまり、定住生活では生産が日常なのである。ゆえに、遊びの定義に非生産的活動という項目がある理由は非生産的活動が非日常だからである。本書では、退屈している人間が求めているのは自分を興奮させてくれる事件である(p66)と書かれてあるが、正確にいえば、退屈な人間が求めているのは刺激と非日常なのである。

現代の退屈

現代人はスマホを手にした。私のバイトの先輩は暇な時間に農場を広げてゆくスマホゲームをしていた。牛のミルクをとって、野菜を収穫し、工場を建設してお金を稼ぎながら、農場を広げてゆくゲームだ。先輩のスマホの画面に映るキャラクターは忙しなく働いていた。私は先輩にこのゲームの何が楽しいのか聞いてみた。すると先輩は、何も考えないでできるのがいいんだと言っていた。先輩はゲームの用意した作業にすすんで取り組むインスタント奴隷になっていた。

新しい視点を持つこと、常に成長し続けることが要求される現代社会はさまざまなことが個人の問題になり、人々は自分の内面に関心を集中させる。その結果、うつ病などの病を構造的に生み出す。内面に関心を集中させた人間はより一層退屈に敏感になる。そこで人々はスマホによる感覚刺激でなんとか、退屈から逃れている。

スマホを手にした現代人は、動画や写真、コミュニケーションの断片と言った無数の感覚刺激を過剰に摂取することで、退屈を意識せずに済むようにしている。しかし、スマホから得られる感覚刺激は、消費社会の終わらない消費と同じように退屈を作り出す。どれほどスマホから感覚刺激を取り入れても「何か足りない」という気持ちは無くならない。スマホから刺激を入れても入れても、やはり退屈なのだから、消費社会の拒絶反応によって生まれたタイラー・ダーテンと同じように、現代社会では刺激からの拒絶反応が生まれる。その拒絶反応として現在、瞑想が流行している。

私は実際に瞑想を実践してみた。30分ほど外部の刺激を排除し、自分が考えていることに意識を集中させる。瞑想をしている間は、心は平静の状態で、退屈だなぁと感じることはなかった。しかし、瞑想を終えてから5分後には、一定時間、脳に刺激を入れなかった反作用か、強烈に何かをしたいという気持ちになった。この時、人間は完全には退屈から逃れられないのだと身に染みて悟った。

なぜ退屈するのか

増補新版の付録に退屈とは、外部からの刺激がない安静な状態では、過去のトラウマが自分の内側から、自動的に想起させられそれから逃れるために起こる、というものがあったが、私はもっと単純に退屈はトラウマとか、何か他の要素のによって引き起こされるものではなくて、誰しもが「持っている」ものだと考える。

本書における退屈の定義は「何かしたい」のにできない状態、気分のことであった。人間は退屈の時「何かする」ことで退屈状態から脱出する。けれどそれでは、何かした後には、また次の「何かしたい」が現れる。この「何かしたい」を解消する埒が明かない戦いを人間は1万年以上続けているようだ。では一体なぜ人間はいつも「何かしたい」のだろうか。人間の「何かしたい」がなくなれば退屈は無くなるんじゃないか。

本書にハイデッガーのミツバチの例があった。腹部に切り込みを入れられたミツバチは満腹というシグナルを受け取ることができない。それゆえに蜜を吸い続けるというものだ。人間のあくなき「何かしたい」欲求はこれと似たようなものではないか。、ちょうど腹を切られたミツバチが蜜を吸い続けるように、人間は「何かする」ということは満腹になることがないため、ストップのシグナルが働かないまま、何かをしようということに歯止めが効かなくなってしまっているのではないか。

人間は脳が異常に発達したから、この終わりのない「何かしたい」状態の自分を認識できるようになった。それゆえに何かをしていない状態にストレスを感じてしまう。それが退屈なのではないか。

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