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『神さまと神はどう違うか』

私は宗教や神さまの話になるとウッと身構えてしまう。というのも、通っていた高校がキリスト教主義の学校で当時のトラウマがそろりと顔を覗いてくるからである。私は正直に申すと、宗教や、神さまというものが大嫌いなのである。

学校に来て席についてまずはじめにすることは讃美歌を歌うことである。午前8時40分になると校内放送で讃美歌が流れてくる。それを歌い終えると教室内で決められた範囲の聖書を読み、教室にいる全員で「主の祈り」を唱える。「主の祈り」というのはキリスト教での祈りの基本形みたいなもので、クリスチャンならまず間違いなく暗唱できるものだ。

主の祈り

天にまします我らの父よ。

願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。

御国(みくに)を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、

地にもなさせたまえ。

我らの日用(にちよう)の糧(かて)を

今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、

我らの罪をも赦したまえ。

我らを試(こころ)みにあわせず、

悪より救いいだしたまえ。

国と力と栄えとは、

限りなく汝(なんじ)のものなればなり。

アーメン。

http://seig16.seigakuin-univ.ac.jp/ryokusei/load_prayer.html

「天にまします、我らの父よ」だと。この文を読み上げた瞬間に「我ら」の中に私が私の意思に関わらず含まれてしまう。私にとって“Amen”とは、「マジでそうだと思います。」「マジでそうなってほしいです。」という意味であると認識している。この言葉は讃美歌の最後や、祈りの最後に必ずセットでくっついてくる。だから、讃美歌を歌うこと、主の祈りを唱えることは、神さまを称えること、そして認めることになる。

毎朝本心では全く思っていないことを、讃美歌や主の祈りを通して強制的に声にして出さなければいけなかった。毎朝の祈りの時間が約3年も続けば覚えたくもない讃美歌、主の祈りを覚えてしまっていた。納得ができないまま自分の中に入れたくないものが無理やり入ってゆくような感じがとてつもなく不快であった。

私はこの世にキリスト教徒が何億人も存在することに心の底から驚愕した。

私の唱える祈りにはこれっぽっちも主への感謝などなかったが、声に出すという身体作業をすることが辛かった。この時、からだと気持ちは切り離すことができないと悟った。

日本人の99パーセントはクリスチャンではないので「主の祈り」というのをこの記事で初めて知った方も少なくないだろう。これを読んで納得して同意して、アーメンと唱えられるだろうか。私は本当に疑問である。高校の友人たちは私が見る分には嫌な顔せずに唱えていた。習慣になればグダグダとそんなことを考えることもせず祈ることができるようになるのだろうか。私は何事にも自分で納得するまでは前へ進めない人間だ。私が宗教や神を嫌いな点はその世界を疑わないで規定事項として進める点だ。

このような経緯があるため、私は「神」という文字を見ると思考停止に近い状態になる。苦手な食べ物を口に含んだ時の感覚に近い。条件反射的に身体から吐き出したくなる。しかし、学生時代は嗚咽を繰り返していただけではない。ちゃんと口に入れて納得して消化をしたいと言う気持ちはあった。だから、旧約聖書も、新約聖書もどちらも読んだ。それでもダメだった。フィクションとして楽しめたが、ノンフィクションとして信仰することはどうしてもできなかった。

ただ、理解はできないだけで出会った牧師さんはみんな優しくて好きだった。キリスト教は信仰する者を優しく、思いやりのある人へと変化させる。牧師たちを見ているとそんな気がした。キリスト教が多くの人に信仰されているのはこのような牧師たちがいるからだと今では思っている。

少しだけ本書に触れるが、「信仰に価値があるとするならば、それは、それを信じている人の価値に由来するものではないでしょうか。」と筆者は語る。宗教や神に整合性がなくても、信じる人にとって有益であれば良いのかもしれない。






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