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思い出小袋


泣き虫

 子どもの頃を思い出すと、いつも泣いてばかりであった。それは、幼児期特有のわがままを聞いてもらえるとか、感情で相手に理解を求めるためのものではない。感情が溢れすぎて処理しきれなくなり、勝手に出てくるものだった。恥ずかしいから泣きたくないのに涙が止まらない。泣いたのを知られたくなくて何度も顔を洗うけど目は腫れているからバレてしまうのが嫌だった。高校生になっても泣き虫は治らなかった。実は今でも涙脆い。感情全てにアンプがつながれているようだった。そんなんだったから、こころを言語で捉えるよりも感情のままで捉えることの方が得意である。
 人間はなぜ涙を流すのか。それはこころを異常に発達させたからだ。人間以外に涙を流す動物はウミガメしか知らないが、彼女達が泣くのは感情のせいではないようだ。人間以外の動物が感情によって涙を流さないのは、こころが人間ほど発達していないからだ。感情が一定のキャパシティを超えた時、人は涙を流す。動物はそのキャパシティを超えるほどのこころをもっていない。
 もしかしたら、涙が出てしまわないように感情を人間ほど発達させないように適応しているのかもしれない。考えてみれば、泣くという行為は生存に不利に思われる。貴重な水分が失われ、目も見えにくくなる。数え切れないほど涙を流した私にとって涙は邪魔なものだ。人間はこの「泣く」という行為をどうにかする為に、言語を生み出したのではないだろうか。
 言葉が感情の受け皿として働く。まだ言葉という感情の受け皿をを持たない赤ちゃんがわんわん泣き、やがて言葉を覚えて歳をとっていくうちに泣く回数がだんだんと減ってゆくことに説明ができる。もし、人間が言語を取り上げられたら、大人も子供も仲良く、赤ちゃんのようにわんわん泣いて平和な世界になるのではないか。
 私の場合、感情が大きすぎて、多種多様であり、言語の網をすり抜けて捉えられなかった。だから歳をとって言葉を覚えても感情のキャパシティをすぐに超え涙を流す。多くの言語の根元には感情が存在する。
 こころの観測方法は二つある。感情と言語である。
 言語は粒の性質を持つ。はっきりと特定の部分をピンポイントに指し示す。そして、直線的に伝わる。一方、感情は波の性質を持つ。強め合ったり弱め合ったりできるし、障害物の背後など、一見幾何学的に到達できない領域に回り込む(回折)ことができる。
 光の二重性からも分かる通り、両者は二者択一である。言語で伝えれば、こころは感情よりもはっきりと伝えられる。しかし、言語では到達できない領域がある。感情ならばその領域に到達できる。しかし、伝わる頃には多くの夾雑物を含む。
 小さい頃から、こころの非言語の部分を強く意識してきたから、こころの運用(思考)にも強く影響を与えている。言語の論理よりも、イメージや意図、意志を重視する。人が話すこと、書くことそのものよりも、その人どういう思いで行動しているのかの方に注意が向く。私が物事を理解するとき、感情を元にして辿っていく。相手の感情も自分の感情も幅があるから、定義ははっきりと定まらない。言葉とはそういうものだ。
 先日、生まれて1年も経たない親戚の赤ちゃんに会った。泣いて、笑って、見つめて。そこには言葉を持たない者との、神秘的な感情のコミュニケーションがあった。


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