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交換様式Dから見る利他【基礎教養部】
はじめに
近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学「私」を生き直すための哲学』を読みました。この記事はその読書レポートです。
少し前に、柄谷行人さんの「力と交換様式」を読みました。そこで柄谷さんのいう交換様式Dが私の中で利他の概念と結びついたので、利他について考えてみようということで、この本を読みました。率直な感想としては、哲学書としては受け入れられなかったです。Amazonの商品紹介ページに哲学論考と書かれていましたが、どちらかというと随筆や自己啓発の側面が強く出ていると感じました。この本を哲学書として読むのは危険かなと思います。それを念頭に置きながら、利他概念とは何か考えました。
利他行動による自由の回復
この本では利他を次のように定義しています。
利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること、である。
またケアを次のように定義します。
ケアとは、その他者の大切にしてるものを共に大切にする営為全体のことである。
近内さんは利他とケアの違いを葛藤の有無によって区別する。ケアは、相手の大切なものに寄り添って支援をすることであり、そこに自分の従っている規範との衝突という条件が加わった時、ケアは利他に変わる。つまり、利他はケアの部分集合であり、ケアは利他の必要条件である。近内さんが、ケアと利他を概念として分けることを提案するのは、利他には「自由」を発生させる力があるから、と述べる。
なぜなら、他者の大切にしているものを大切にするために、自分の従っている規範にぶつかり、それを乗り越える瞬間は、規則に支配されることも、管理されることもなく、自分の人生を生きている実感を与えてくれるからである。
この利他の中に「自由」を見出して、ケアと区別したのがこの本で私が得た発見である。
そして私は、利他の中に自由を見出すという点でエドワード・O.ウィルソンの「人間の本性について」の一節を想起した。
第一次、第二次両世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争を通じて、戦友をかばうために手りゅう弾の上に身をふせてしまった兵士や、死を承知で戦場の戦友の救出作戦に参加して命を落とした兵士や、あるいはその他の同様に果敢な決断を下して殉死してしまった兵士たちに対して、数多くの名誉勲章が送られてきた。そのような利他的な自殺行為は、最高の勇気を必要とする行為であり、国家の最高栄誉がそういった人々に授けられるのは当然のことである。しかしそれにしても、このような行為は依然として大きな謎である。自己放棄の土壇場でこれらの人々の心中は一体どんな状態だったのだろうか。ジェームズ・ジョーンズは『第二次世界大戦』という著書の中で次のように記している。”このような状況下で最も大きな要因となるのは、個人的虚栄心と自尊心である。そして戦いの興奮事態にも、普通ならたじろぐに違いない場面で、しばしば兵士に進んで死を選ばしめるような力があるのである。しかし、いよいよ最後の土壇場になって、まさに数ヤード先に自分の死が待ち受けているという段落に達すると、兵士はおそらくは、国家的、社会的、さらには民族的マゾヒズムの一歩手前のような状態に陥ってしまいーある種の非常に愉快な、ほとんど性的といっても良い快感と受容の状態であるー、それが兵士たちに、最後の数歩を決行させるのではあるまいか。もうどうなろうとかまいはしないのだ、という至上の快楽があるのだと思う。”
今際の際に利他行動を取るという経験がなくとも、この兵士の快楽が想像できると思う。
この兵士の「もうどうなろうとかまいはしないのだ、という至上の快楽」を感じている時、兵士は自由を獲得している。この快楽は利他行動による自由から来るものである。もし、この兵士が自分の死を無駄死にだと認識していたら、最後の数歩は決行できないだろうし、そこに快楽はないだろう。誰かのために死ねるという利他的な行動に基づく動機であるからこそ快楽があるのだ。私はここに働く私たちを利他行動へと駆動させる力を「力と交換様式」で示された原遊動性(U)による力だと考える。
原遊動性とは、人類社会の初期の遊動民出会った頃の無機質な状態である。遊動的な狩猟採集民たちは、社会的な葛藤や縛りを持たなかった。従って特に利己的なわけでも利他的なわけでもなかった。すなわち自由であった。しかし、定住により規範や規則が生み出された。定住が「有機的」な状態をもたらしたのである。そのとき、無機質の状態に戻ろうとする死の欲動が現れた。
この葛藤と対立を解消したのが交換様式Aである。死の欲動はまず、他に向けられる攻撃欲動として働いたが、さらに、それを抑えて他者への譲渡=贈与を迫る「反復強迫」へとなり、それは霊的な力としてあわられた。それは、遊動民であった頃の無機質な状態、すなわち自由を求める欲動である。
死の間際に利他行動をとる兵士になぜ快楽が生まれるのか。それは、利他行動をするとき、既存の規範からの脱却があり、その瞬間、原遊動性を確保する。そこに自由への回復があるからである。
交換様式Aによる力と交換様式Dによる力は共に原遊動性に由来する。DはAの高次元の回復である。交換様式Aが成立した初期、すなわち人類が氏族社会を形成していたとき、もちろんまだ国家(交換様式B)は成立していないし、貨幣交換による交換様式Cもまだまだ成立していない。BとCが発展を遂げた現代において、この規範にがんじがらめな現代において無力化したAを高次元で回復させるもの、それが利他であると考える。
では利他による「力」とAによる「力」はどう違うのか。
利他行動は向こうからくる
他者の傷に導かれて僕たちはケアを為す。そしてケアの中で、思いがけず自分が変わってしまう。利他が起こり、自己変容に至る。それが僕らに「生きている心地」「自分の人生を生きている実感」を与えてくれる。
後半の、利他が「生きている心地」「自分の人生を生きている実家」を与えてくれるということ、すなわち利他行動によって自由を獲得できるということは上で述べた。ただ、最初の「他者の傷に導かれて」の部分も重要である。交換様式Aによる、他者への譲渡=贈与を迫る反復強迫による行動は自分から始まる。他者に対して、「〜してほしい/〜しろ」という自分視点から始まる。しかし、利他行動はそうではない。利他行動の始まりは意識することができない。「他者に導かれる」ものである。行為の始まりはあなたと私の間であること、「向こうから来る」ものである。それに関して、同じく利他について考えた中島岳志さんは次のように述べている。
人間が行う利他的行為は、この他力が宿ったときに行われるものです。意志的な力を超えて、オートマティカルに行われるもの。止まらないもの。仕方がないもの。どうしようもないもの。あちら側からやってくる不可抗力。
利他行動における、この他者に導かれてあちらからやってくる「力」。困っている人を間近にした時、その人のために何かしてあげなきゃいけないと私たちに思わせる「力」。これこそまさしく交換様式Dによる「力」だと私は考える。Aとの違いは、他者に導かれて強迫的に作用することである。Aは「私」の欲動であった。しかし、このDによる力は意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」と言えるものでなはい。中島さんがいうように「あちら側からやってくる不可抗力」なのである。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形ではこない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」
柄谷さんは「神の国」の到来がDの到来という。つまり、人と人との「間」、これまで持っていた規範から他者の規範を取り入れた規範の生成、それによる局所的な国家から脱却、社会的諸関係を超えて見出される関係での人との関わりから、交換様式Dが到来する。そして、この世に同じ人は一人としていない。人と人の間は無限に存在する。だから、人と人との間の関係、交換形式は終わりがない。反復的に働く。
私とあなたは見ている景色が違うということを認識すること。そこに交換様式Dの発展のヒントがあると思う。
おわりに
ほとんど「力と交換様式」の読書レポートになってしまった。最後で申し訳ないが、「力と交換様式」と「利他、ケア、傷の倫理学」を同列に扱うのは良くない気がしている。論理的構造物としの完成度合いが全然違う。そして、私の中で利他の概念がまだ曖昧である。「力と交換様式」を読んでいて、なんとなく交換様式Dが利他概念ぽいなという小さい気付きから考え始めたところである。さらに、柄谷さんの著書で初めて読んだのが「力と交換様式」でその他の著書はまだ読んだことがない。だから、柄谷さんの思想に対して体系的な知識も持ち合わせていない。上の考察はまだ、(仮)状態である。ゆえに、今後は、「世界史の構造」など柄谷さんの他の著書も読み、同時に、利他概念について突き止めていくことを目標としたい。
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