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『オレンジ・アンド・タール』 藤沢周

「モル計算。カズキ、おめえに当たってんだよ。」
 大船のカラオケボックスでまたB'zを歌い過ぎたんだろう、かすれた声でタカがいう。教壇の方を見ると、黒板に化学式が書かれていて、白衣を着たシマモリがじっとオレのことを見ていた。
 モル計算? なんか意味ねえよな。
 死んだキョウの口癖が不意に浮かんでくるのを思いながら、オレはゆっくり立ち上がった。なんか意味ねえよな。意味ねえじゃん、だって。それでどういう意味があんだよ。なーんか意味ねえよ。

 親も教育熱心で、何不自由のない家庭で育った、あんなに明るくて素直な少年が何故、って……。
 何故じゃないだろう。
 だから、だろう。
 だいたい明るくて素直な少年というやつが、いるわけがない。いたら、そいつはただバカなだけだ。

…それから男はフロント・フリップっていう高いエアターンを一発でクールにきめた。クモみたいな低いスタンスでグアーッって坂を下って、空にせり上がっているカーブにアプローチしてから一気に飛ぶ。
 静寂。
 宙で一瞬死ぬ。
 消滅。
 この世界から向こう側に消えたと思ったら、また、ものすごいエネルギーを体じゅうに吸い込んで持ち帰ってくるのだ。

 子供のころ、宇宙の果てについて考えて気が狂いそうになったことがあるけど、その恐怖にも似ている。だが、それをとにかく突き抜けなければダメだと思う。想像だけでも克服できれば、少しは楽になる。想像するのはオレたちの義務だ。義務。義務。義務。義務。義務。
 ウソだ……。本当は、想像しなくても、考えなくても、向こう側から自然にやってくるのだろうと思う。
 オレは知っている。キョウがそこで引っかかってしまったのを。目には見えない網とかトラップとか、せめて見えない振りしてやり過ごせば良かったんだ。知らねえって感じで。むこうからやってきても、知らねえって感じで、オレみたいにヘラヘラ笑って……。

「カズキ……オレ、よく分からないんだけどさぁ。なんか意味ねえって感じ、ない? なんか意味ねえんだよ。ほら、オレがさぁ、こうやってしゃべってるのもさ、ズリセンかくのもさ、ハットトリックきめるのもさ、なんか、だからどうしたっていうかさ。オレ、見えるんだよな。見えるんだ。カズキさぁ、スケボーやってて楽しい? なんで? それって、ちゃんと説明できる?」

 父親も母親も、オレは嫌いじゃない。と思う。たぶん。
 ただ、頭にきてキレた時は本気で殺してやりたくなって、オレは真っ黒な弾丸みたいになるが、それほど長続きするわけではない。キレるといっても、だいたい本当は自分自身に向かっているものだ。それくらいは分かる。

 やっぱ、オンナってものを知らないと、世界は克服できないと思いながらも、トモロウさんがいった言葉を思い出す。オレが世界を克服できなきゃって焦ること自体が、トモロウさんにいわせればアホな話なのだろう。
「最初から、意味も自分も何もないってことを本気で考えてみろよ」
という声が頭の中に聞こえてきて、車窓に広がる七里ヶ浜の海を見つめていた。緑色の波は当たり前に白く泡立っては浜に寄せて、また引いていく。その繰り返し。

『オレンジ・アンド・タール』藤井周

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