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『東京奇譚集』 村上春樹

 きっかけが何よりも大事だったんです。僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読みとれるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず。そういう気がしてならないんです。どうでしょう、僕の考えは強引すぎるでしょうか?

『偶然の旅人』村上春樹

「女の子とうまくやる方法は三つしかない。ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている洋服をほめること。三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。簡単でしょ。それだけやって駄目なら、とりあえずあきらめた方がいい」

『ハナレイ・ベイ』村上春樹

「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」と父親は言った。
………
「だからもしお前がこの先いろんな女と知り合い、つきあったとしても」と父親は続けた。
「相手が間違っていれば、それは無益なおこないになる。そのことは覚えておいた方がいい」

『日々移動する腎臓のかたちをした石』村上春樹

 しかし、なんて面白みのない人生なんだろう———みずきは自らの人生の過去と現在について質問されるままに語りながら、あらためて感心してしまうことになる。考えてみれば、彼女の人生にはドラマティックな要素がほとんど見あたらないのだ。映像にたとえて言うなら、眠りを誘うことを目的として制作された低予算の環境ビデオみたいなものだ。淡い色調の風景がただ淡々と、切れ目なく映し出されていく。場面転換もなく、クロースアップもない。盛り上がりもなく、落ち込みもなく、人目を惹くエピソードのようなものもない。予兆もなく、示唆もない。ときどき思い出したようにカメラのアングルがわずかに変化するだけだ。

「みずきさんはこれまで、嫉妬の感情というものを経験したことがありますか?」と松中優子は前置き抜きで質問した。
 …………
「たとえばみずきさんが本当に好きな人が、みずきさんではない別の誰かのことを好きになったとか、たとえばみずきさんがどうしても手に入れたいと思っているものを、誰か別の人が簡単に手に入れてしまったとか、たとえばみずきさんが『こんなことができればいいのに』と願っていることを、ほかの誰かが何の苦労もなくやってのけるとか……そういうようなことで」
「そういうことって、私にはなかったような気がする」とみずきは言った。
「ユッコにはそういうことがあるの?」
「いっぱいあります」
 それを聞いてみずきは言葉を失ってしまった。この子はいったい、これ以上の何を望んでいるのだろう? とびっきりの美人で、おうちは金持ちで、成績もよくて、人気もある。両親は彼女を溺愛している。週末にときどき、ハンサムな大学生のボーイフレンドとデートをしているという話を耳にしたこともある。人がそれ以上の何を望めばいいのか、みずきには思いつけなかった。

「嫉妬の気持ちというのは、現実的な、客観的な条件みたいなものとはあまり関係ないんじゃないかという気がするんです。つまり、恵まれているから誰かに嫉妬しないとか、恵まれていないから嫉妬するとか、そういうことでもないんです。それは肉体における腫瘍みたいに、私たちの知らないところで勝手に生まれて、理屈なんかは抜きで、おかまいなくどんどん広がっていきます。わかっていても押し止めようがないんです。幸福な人に腫瘍が生まれないとか、不幸な人に腫瘍が生まれやすいとか、そういうことってありませんよね。それと同じです」

「………そんなわけであなたは小さい頃から、誰からもじゅうぶん愛されることがありませんでした。あなたにもそのことはうすうすわかっていたはずです。でもあなたはそのことを意図的にわかるまいとしていた。その事実から目をそらせ、それを心の奥の小さな暗闇に押し込んで、蓋をして、つらいことは考えないように、嫌なことは見ないようにして生きてきました。負の感情を押し殺して生きてきた。そういう防御的な姿勢があなたという人間の一部になってしまっていた。そうですね? でもそのせいで、あなたはだれかを真剣に、無条件で心から愛することができなくなってしまった」
みずきは黙っていた。
「あなたは現在のところ、問題のない、幸福な結婚生活を送っていらっしゃるように見えます。実際に幸福なのかもしれません。しかしあなたはご主人を深く愛してはおられない。そうですね? もしお子さんが生まれても、このままでいけば、同じようなことが起こるかもしれません」
 みずきは何も言わなかった。床にしゃがみこんで、目を閉じた。身体ぜんたいがほどけていくような気がした。皮膚も内臓も骨も、いろんなものがばらけてしまいそうだった。自分が呼吸する音だけが、耳に届いた。

『品川猿』村上春樹

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