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『何もかも憂鬱な夜に』 中村文則(2)

「一つ話をするか。わからんかもしれんが」

「お前は…アメーバみたいだったんだ。わかりやすく言えば」
「温度と水と、光とか……他にも色々なものが合わさって、何か、妙なものができた。生き物だ。でもこれは、途方もない確率で成り立っている。奇跡といっていい。何億年も前の」

「その命が分裂して、何かを生むようになって、魚、動物……わかるか? そして、人間になった。何々時代、何々時代、を経て、今のお前に繋がったんだ。お前とその最初のアメーバは、一本の長い長い線で繋がってるんだ」

「これは、凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」

「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方も無い奇跡の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい」

「お前は、何もわからん」

「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカや安部工房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」
「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホもピカソだってまだだろう」

「お前は、まだ何も知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」

「自分の好みや狭い了見で、作品を簡単に判断するな」

「自分の判断で物語をくくるのではなく、自分の了見を、物語を使って広げる努力をした方がいい。そうでないと、お前の枠が広がらない」

「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」

「考えることで、人間はどのようにでもなることができる。
……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる」

「確かに、お前の言うのはそうだ。お前が生きてると、辛い人間がいる。お前が死んだって元に戻らんが、お前の死を遺族が望んでるなら、せめて、残った人間を、これ以上不幸にする必要はない。お前は死ぬべきかもしれない。でも、でもだ、お前は生まれてきたんだろ? お前はずっと繋がってるんだ。お前の親なんてどうでもいい。俺だって親はいない。一つ前のものに捨てられたからって、そんなことを気にする必要はない。俺が言いたいのは、お前は今、ここに確かにいるってことだよ。それなら、お前は、もっと色んなことを知るべきだ。お前は知らなかったんだ。色々なことを。どれだけ素晴らしいものがあるのか、どれだけ奇麗なものが、ここにあるのか。お前は知るべきだ。命は使うもんなんだ」

『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

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