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天職じゃなくてもOK

故郷に帰って鋭気を養い、いつか再び花のお江戸で

 憧れて入社した自動車メーカーだったが2年目には嫌気がさしていた。大学の同じ研究室にいた4人のうち二人はすぐに会社を辞めて、私が辞めると3人目だった。私たちの指導教授は後に「私の教育が間違っていたことになる。また、就職先が減る」とずいぶん愚痴っていたそうだ。その先生の心も知らず「故郷に帰って鋭気を養い、いつか再び花のお江戸で第一線に復帰すべし」という早期退職組のアドバイスに従い、先のことも考えずさっさとやめてしまった。若気の至りだった。

 職業安定所、現在のハローワークに行ったら「地方では下手に高学歴になると就職先がないんですよ。教職か公務員試験を狙うことですね」と取り付く島もなかった。修士様の私に向かって「下手に高学歴」「就職先がない」ですと無礼者、と怒ってみても現実はそうだった。公務員試験も技術職は募集があるかどうかわからないので教職を選び、1年間聴講生として教職の単位をとりながら受験勉強して、やっと就職できた。教育に情熱を持っていたわけではないが、他に道がなかった。「この道のほかに我を生かす道はなし」である。ちょっと違うか。

突然、やる気がでた

 他にやることがなく、しかたなく就いた教職で北海道の端っこに赴任、やや不貞腐れ気味の5月連休、部屋でゴロゴロしていると窓の外から「先生!遊びに来たよ」という声が聞こえた。生徒が5~6人、ニコニコしながらこちらを見上げている。「なんてかわいい!」とうれしくなった。こんなことで急にやる気がでるのが私の強みかもしれない。

美はこれ雪国 それさえ試練

 ピリッと冷たく澄んだ空気が気持ちよく、遠くの山脈が輝いて見えた。さすがに国立公園内だけのことはある。赴任直後はこの寂しい土地で生きていけるだろうかと不安だったが、いつしかこの贅沢な環境に感謝するようになっていた。
 ダイヤモンドダストがきらめく朝は、石炭ストーブが真っ赤になるほど燃えていても寒く、授業中もコート、マフラー、手袋を離せなかった。「美はこれ雪国 それさえ試練」という校歌の一節が胸を熱くする。
 厳しい自然と美しい景色、若者たちと過ごす毎日、石坂洋次郎の描く「青い山脈」よりも、はるかにドラマチックだった。

天職でなくても、仕事は人を退屈さから救ってくれる

 一時しのぎのつもりの高校教諭だったが、田舎のスローペースが楽ではまってしまった。ほぼ最果てと呼ばれる地域で、他の土地から流れてきた人も多く、偏見やしがらみが少ないことも幸いした。「いつかは花のお江戸」という気持ちも結婚したら消えてしまった。

 正直に言うと教員生活は辛い時間の方が多かった。多忙、保護者対応、生徒の非行、荒れる授業、同僚との対立、逃げ出したいと思ったことが何度もあった。会社にいたときの方がずっと楽だった。赴任地は田舎で残業手当もない。部活指導で休日出勤はあたりまえ、民間企業だったら超ブラック企業である。
 それでも定年まで務めることができたのは、気持ちを共有できる同僚、そして何よりも生徒の笑顔があったからだ。辛い時ほどそのありがたさがよくわかる。極寒の朝だけ見えるダイヤモンドダストに似ている。

 積極的に臨んだ仕事ではないし、天職だと思ったこともないが、辛さと同時に多くの感動を与えてくれた。おかげで長くて退屈な職業生活を送らずに済んだ。自分にとっては良い職業だったと今は思っている。

 自分の子どもには勧めなかったが・・・。

 

 


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