見出し画像

あのこは貴族 鑑賞レビュー

"東京は棲み分けされているから、違う階層の人とは出会わないことになっている"


東京という都市の中にいくつもの階級ごとのパラレルワールドが存在していて、その中では具体には違えど、同じような苦楽がある。

※下記ネタバレ注意





◇あらすじ


松濤育ちの開業医の末っ子である現代貴族・華子と、富山から上京してきた地方出身者・美紀の二人が、ひょんなことから出会い、自分たちの周囲の環境に振り回されつつも自分の足で歩いて行く、いわば大人の成長物語である。
家業の後継のために結婚を急かされるも、自分自身もそれになんの疑いも持たず、言われるがままにさまざまな男性を紹介される。
そこで出会った代理弁護士の青木幸一郎と結ばれて、結婚することになるも、青木家は華子の一族よりはるかに格の高い一流良家だった。
ある日青木の身辺に"美紀"という女性の存在があることを知る。
一方、美紀はというと、地元の富山から大学受験を経て慶應義塾大学へ進学するも、入学早々"外部生"と"内部生"という階級格差を目の当たりにする。
幸一郎とは学生時代の平民/貴族の関係であったものの、いつしか体の関係を持つようになり、その関係は華子と幸一郎の婚約後も続いていた。
ある日、青木と美紀の関係を偶然目撃した華子の友人により、階級の異なる二人は引き合わされることとなるが…。

◇ 映画のストーリー構成(※私的解釈)

映画を見る前は、身分の異なる二人が歪みあったりもっと直接的な絡みがあるのかと想像していたけれど、やっぱり階級が違うもの同士なので、二人の接触は偶然以外は全くない。
それどころか、
"女同士を争わせたいわけではない"
という友人逸子の台詞の通り、よくある対立ものストーリーを、観客に向けて完全否定する。
女同士の対立はおろか、男女の対立も、階級の対立も起こらない。
徹底して"他人は他人、自分は自分"を貫いた、万人に優しい清らかなストーリーを構成している。
これは鑑賞中は、"なんだそれ!余計なことする友人だな!"と奇妙に感じていたのだけど、この物語はあくまで"映画"という、見せるコンテンツなのだ。

映画というコンテンツを意識させた映画として、
ウディ・アレン監督の「アニーホール」で、主人公役のウディ・アレンが歩きながら持論をベラベラと話し、それに対し通行人が画面の外の私たちに向かって返答するという、画面の内外を連続的に使った演出をしていたのを思い出した。
映画を単なるストーリーテリングのツールとしてでなく、共感装置として用いているという意味でとても面白いなあと感じたっけ…。

逸子の台詞の他にも、
"お雛様なんて出したことない"的な美紀の台詞に対して、素直に驚く華子、普通なら"お金持ちだからってなんなの!?"と思いかねないのに、美紀もあれ?そんな不思議?と、割とケロッとしてる。
出会ってすぐ美紀に封筒を渡す華子の行動にもドキッとさせられるも、中身はお雛様展のチケットというスッとぼけでシュルシュルと観客の予想を交わしていくのが、とても新鮮で心地よい。

◇映画の基礎構造(※私的解釈)

序盤に述べたように、東京という都市には、階級ごとの世界がパラレルワールドのように存在している。
それは層状に重なり合うものや、土地ごとに分割されるもの、同じ世界でも移動(交通手段など)の過程でうまく互いを避け合うようにできている…と言った具合に。
地方でもそれなりの階級格差はあるだろうけれど、東京ほど都市構造と密接に関わりあうものではないのだろう。
ただ、完全に分離されたように見えるパラレルワールドをつなぐ結節点のようなものが世の中には存在しているのだと思う。
それがおそらく、劇中の舞台でもあった慶應義塾大学であり、キャバクラであり、地域の催し物であったりする。
さらに今作においては逸子という、華子側の世界の人間であるにもかかわらず、ヴァイオリニストとして自立したガッツのある女性キャラクターも、二つの世界の架け橋として機能しているところが面白い。


華子と美紀、二人の階級というのは生まれた時から決まっている。
階級を決めるのは家族であり、周囲の人間であり、生まれた土地であるから。
立場や地位というのは周囲によって形成されるものなのだろう。
その立場や地位という分かりやすい外郭の内側に、本来の自己意識は存在していて、その自己意識のみで歩くことは、特に東京では非常に難しいのだと。
原作者の山内マリコ氏のインタビューで、実は上京組より地方で世帯を持つ人たちの方が、心が裕福なのではという話があったのも、要はそういうことなのだろう。
東京という都市構造に自分を落とし込む過程で、自らの階級や立場地位を認識せざるを得なくなるため、自己意識は閉塞感でどんどん内側へ押し込められてしまうのかも知れない。
(立場や地位が一人歩き状態?)
地方にいると、生まれ育った時からの立場地位を無意識的に受け入れられるし、(周囲の人によって築き上げられた立場地位なので)周囲との差異を感じ取りにくいのだろうな、と。
"他人は自分を映す鏡"ということかしら。

最近グザヴィエ・ドラン監督の「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」をみたのだけれど、ハリウッド俳優のジョンとイギリスに住む少年ルパートが、互いをある種の実在するイマジナリーフレンドのように認識し、社会的なしがらみに侵食されず個対個で密かに文通を続けていたにもかかわらず、結局"階級"の違いゆえ、周囲に取り沙汰され個を保てず平安を乱されてしまうというあたり、テーマが本作にも近しいな、と感じた。
また、今作で華子の世界(家族)の中にいる唯一の"よそもの"であった義兄が、家族にお見合いを勧められた際、"それは華子ちゃんが自分で決めること…"と発言したシーンがあったが、
これもドランの「たかが世界の終わり」で、死期の迫った作家のルイが家族の元に帰ってくるも、親族の強引すぎる想いをぶちまけられるなか、マリオン・コティヤール演じる兄の妻のみ、静かにルイに寄り添い同情しているように演出されていたシーンを彷彿とさせた。

また、この立場地位というのは社会的な階級にとどまらず、性別差や学歴など様々存在している。
この映画の描く格差というものが、平民と貴族という二元論でないということは、映画を見た人なら容易く理解できただろう。
二分された世界であれば、単純にどちらかが苦でどちらかが安であったかも知れないけれど、それぞれが自分を取り巻く格差によって、具体には異なれど、同じような葛藤があるため、観客はおそらくどのキャラクターにも共感できたし、どのキャラクターも嫌いになれなかったはず。
よくある映画構成であれば、何不自由なく生きてきて相続・出世のために結婚をする青木幸一郎は悪として描かれていたかも知れない。
けれど実際、幸一郎も名家に生まれてしまったため、男に生まれてしまったため、家を継ぎ出世するしか生きる道がない、と、その立場や地位に自分をがんじがらめにされており、やっぱり憎めないのだ。
(勉強していい大学に入れば親が喜んでくれるから、と必死に勉強する子供のように見えてしまう。)

ダリボル・マタニッチ監督の「灼熱」で描かれていたクロアチア内戦でも、クロアチア人とセルビア人という民族の違いから互いを排除しようと差別意識が生まれ、凄惨な歴史を歩むことになったことが描写されていたが、"民族"という社会的立場の内側に秘められた個人の本能的意思で、人は互いに引き寄せられ恋に落ちる。
ただ大きな社会的意識(民族差別)というわかりやすい分類のせいで、自己を(本能的愛情)を見失ってしまう。
この映画では、その社会的意識という固い鎧を現代に至ってまで引きずっている現状を表現しつつも、いつか互いに歩み寄れる…という希望的ラストで締めていたけれど、"立場や地位(民族差)から脱すれば、人は自由になれる"というテーマがあるのかな、と改めて感じた。
(この映画はこれまで見た中で5本の指に入るほど印象的な映画だったので、是非別の機会にオススメさせてほしい。)
映画とは関係ないけれど、大学の卒業設計の時から、"子供"っていうのは大人がいるから初めて子供になれるのであって、子供だけが集まる場であれば、それぞれが小さいコミュニティの中で一個人として自立できるのではないか、と考えてた。
だから小学校というのは子供たちが、あくまで小さい"人間"として、社会性や自己意識を育む場所で、宇宙の中の小宇宙的というか、社会の縮図のような空間なのだろう、と。

子供と大人という不滅の格差について考えると、次の二つの映画が頭に浮かんだ。

アンドリュー・ヘイ監督の「荒野にて」では、父親が死に身寄りのいない少年が、殺処分間近の競走馬を連れて、唯一の親族を訪ねる旅に出るというストーリーだったが、彼が一人で旅をしているシーンでは、一人の逞しい人間として映されていたのに、ラストで叔母と出会い、"もう少しだけここにいてもいい?"と聞くシーンは、少年が"子供"の表情になったのがとても印象的だった。
ようやく本来の"子供"という立場に戻れてホッとしただろうなと感じたのを覚えてる。

これとは逆に、ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督の「ある子供」では、主人公の青年ブリュノは恋人との間に子供をもうけるも、恋人が母親としての自覚を持ち始めるのに対して、全く父親としての意識をもてず、お金のために自分の子供を売ってしまうほどの非常識っぷりだが、(おそらく)放任な家庭で育ったため、彼の周りに"大人"がおらず、自らも"子供"として段階的に成長することができなかった。
タイトルの"ある子供"とはブリュノのことを指しているが、ラストシーンがまさにそうで、
母親になった="大人"になった恋人がブリュノに面会しに来た際のブリュノの非力な涙は、初めて自分を"子供"であると悟り、その無力さに泣いたのではないか、と解釈している。
(まるで生まれたての赤ちゃんが、自分では何もできないので泣く、といった行動にも近いか…。)

美紀の"地元を離れずにいる人は親の生き方をトレースしてるだけ"といったセリフも、非常に印象的だったけれど、地元に関わらず、要は育つ場所と生きる場所というのは必ずしも同じ場所(環境)ではないということなのだろうなあと、ひしひしと感じた。

"ふるさとは遠きにありて思ふもの"感というか。
名作「ニューシネマパラダイス」でも、主人公トトが年の離れた大親友であるアルフレッドに、
"故郷に帰ってくるな。(詳細には覚えていないけれど…)"
"自分がすることを愛せ。子どもの頃に映写室を愛したように。"
といった名言があるが、
故郷に囚われていては、自分の道を歩めないということを、アルフレッドが身をもって自覚していたことから発せられたセリフのように感じた。
これもまた、育つ場所と生きる場所は異なるということなのかな、と。

逸子の
"いつでも別れられるように"
も同様、全てを切り捨てるという意味ではなく、"親だから、慣習だから"と全てに従う必要はなく、自分の考えを持って行動したっていいよね。ということなのだと思う。

(先程、映画はあくまで"見せるコンテンツ"と述べたが、特に逸子は、観客にこの映画のテーマを説明する共感装置として存在しているのかもしれないな、と。)


色々述べたが、要するにこの映画は
古い慣習や格差という文化構造の犠牲になる人に、そんなものはクソ食らえなんだぞ!
という熱いエールが忍びこまされた、
静かで穏やかな優しい映画なのだ!
(超個人的解釈です)

◇個人的感想

物語の主人公なのに、自分の意思では動かず、とにかく流れに流される華子に、何故か嫌気を感じることはなく、むしろ少し共感もできた。
それは私自身、華子とは異なる格差であるものの、"自分が何者か"、周囲の環境や自分の立場でしか語れないということにコンプレックスを感じていて、
自分の決断も、結局は周りの流れに乗ってしまっているだけなのかもしれない…という悩みを持つからだと思う。

移動も決まってタクシーで送り届けられるだけだった華子が、美紀の家で東京タワーを眺めながら棒アイスを食べた後、傘をさして徒歩で帰宅し、帰宅して開口一番
"とっても疲れた"でなく、
"今日はとっても楽しかった"と呟いたのは、こちらまで嬉しくなったシーンだった。
自分の足で歩くことの満足感を知ったのだろうね。
(一緒に見に行った恋人が、
"橋の上で画面左方向に進んでいた華子と逆行して自転車に乗っていたギャル二人が、互いに立ち止まり、手を振った後は華子でなく先にギャルたちが右方向に進んだのは、過去に手を振り、これからはしがらみに囚われず進んでいくというメタファーだったのだろうね。"
と話していて、なるほど、そうかもしれない、と感心してしまった。
橋を越えると新しい自分に生まれ変われる的なこともプラス。)

歩いて帰宅した華子に幸一郎が、まつ毛そんなに長かった?と聞く、いつもと違う何かを感じたシーンもすごく好きだった。

門脇麦のインタビューで、ラストシーンの幸一郎と華子の再会は、はじめの出会い(互いに呪縛を抱えたもの同士)との対比で、"互いに改めて一個人として出会えた"とあって、おおなるほど、と。

夫に"自分が家を継いで出世するのと、君が自分と結婚するのは同じだろう"みたいなこと、絶対に言われたくない…(笑)
実際は敷かれたレールという意味では同じだったのだろうけど。

平民と貴族の生活の違いなど、クスッとなるシーンも多く、かつ自分と接点のない"パラレルワールド東京"を垣間見れて、そういう視点でも面白かったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?