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踊る人形(たち)——櫻坂46『自業自得』考察

バレエの『ボレロ』を彷彿とさせる円形の証言台。その中心に座る山下は「無垢」というより「幼い」印象だ。その表情から彼女の感情を読み取ることはできない。いや、彼女の内面にはただ空虚が広がるだけだ。彼女は雑踏の中から生まれたばかりの「人形」である。

これは、異端審問? 魔女裁判?
冒頭の水を飲むシーンは、8thシングルとの対比で、彼女が新しいセンターとして迎えられていることを示唆している。果たして、彼女はセンターに足る存在か否か。傍聴席(陪審員?)のメンバーたちは喧喧囂囂に論争を繰り広げるが、議論の的になっている彼女は一向に感情を面に出さない。やがて痺れを切らした山﨑が証言台に降りてくる。証言台の山下を取り囲み、降霊術のように舞うメンバーたち。おもむろに山下が語り始める。

愛とは自業自得
過去に出した答えが間違っていても
誰のせいでもない
決めたのは自分自身なんだ

自業自得

山下が顔を背け視線を戻すたびに、彼女の中に感情(のようなもの)が流れ込んでくる。目に力が宿り出す(ここのくだりは演技なのだろうか、指導を受けてるのだろうか、ナチュラルにやっているとしたらすごい)。
ここから山下とメンバーたちの立場が逆転していく。私たちが審議していたのは証言台の山下ではなく、自分自身の過去。空虚そのものである山下を鏡にして自分自身の過去と対面することになる。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ(ニーチェ)。カチッというクリック音とともに照明が切り替わり、人形のスイッチがONになる。

ひと昔前に哲学者ニーチェをライトに紹介する本が流行り、グループ内でも読んでいる人がいたみたいだが、本楽曲は「ツァラトゥストラはかく語りき」のように、「超人」に至るプロセスを逆向きに描いている。今さらニーチェを読み返す気力もないのだけど、おおまかにいえば、砂漠に出ること→獅子の精神を鍛えること→子供になること、という自我の成長の三段階が記されている。ニーチェのいう「超人」とは、強いとか暴力的とかマッチョなイメージではなく、純真無垢な子供の状態を指す。そこにあるのは、過去でも未来でもなく「今ここ」を受け入れ、肯定する「強さ」。6th〜8thが過去と未来を問う曲とすれば、9thは、この一瞬に焦点を当てる。
冒頭の山下は、まさにニーチェがいうところの子供=「超人」として現れる。彼女は「踊る人形」。その内面はどこまでも空虚だ。コナン・ドイルの同名小説はホームズによって解読されたが、この暗号はきっと永遠に解くことはできない。それは必然的にルサンチマン(妬み・嫉み)を生み出す。私たち弱い大衆は、理解できないものに対して、反射的に妬んだり、排除したりしてしまう。それは「サイレント・マジョリティ」や「静寂の暴力」となって彼女たちを襲う。山下の空虚は、三期生たちが遭遇したあの暗闇へとつながっている。

2番からは、山下がメンバーたちと対峙しながら砂漠へと誘う(場面は変わらないけど、精神の砂漠へ)。サビから断続的に挿入される赤い照明は、1サビと同じでスイッチを意味し、彼女たちの意識が切り替わっていくことを示している。「見ざる・言わざる・聞かざる」は、彼女たちが獅子となることの決意表明だ。そして、彼女たちも周囲のルサンチマンの標的となっていく。
全身にペンキを撒き散らされながら踊る彼女たちもまた「人形」になることができるのか。その答えは最後の山下の笑みに隠されている。

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