[岩下壮一] 学者でも雄弁家でもなく

カトリック教会の司祭に求められる資質について、岩下壮一神父の言葉を紹介します。
現に教会に通っている私自身の体験に照らしても、的を得た正確な描写だと思います。

「カトリック者は、学者や雄弁家の膝下に座して教えを聴くものではない。ペトロの教座を占むる教皇が、大神学者たると否とを問わず、唯彼が使徒伝来の教義を説くの故にのみ、彼に聴くのであって、その個人的才幹如何の如きは、純信仰問題に関しては全然無関係なのである。この事は教会に於ける説教に就いても同じである。カトリック教会に於いて説かれる教えは新しき教えではなく、使徒伝来の旧き教えである。教会員の宗教的修養のために提供さるるは客観的な神の啓示であって、説教者の主観的体験などではない。説教者はただこの神の教えを忠実に伝達する機関であって、自己の私見などは交えず、できるだけ純粋にそれを信徒に伝える程その職責に忠実なのである。であるから、少しく教会生活に経験ある者には、最もよき働きをなす教職者は学者でも雄弁家でもなく、常に謙遜にして敬虔なる司祭であることがよく分かる。・・・カトリック教理は、生命価値を有する真理より成る。聖霊が秘蹟を通じてこの真理を心の裡に活かし給う。であるから外人宣教師が怪しげな日本語で説教しても、ミサ聖祭には信徒は聖堂に溢れるのである。誰が代わっても教権の任命した者であれば差支えない。神の言葉を伝うる限り、人は彼に傾聴するであろう。」(岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫 P.125-126))

「最もよき働きをなす教職者は学者でも雄弁家でもなく、常に謙遜にして敬虔なる司祭」

この言葉はまた、司祭に限らず、全てのカトリック者に当てはまるのではないかと思います。
 

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