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#ネタバレ #英国王のスピーチ 王の話をするとしよう。その孤独と覚悟

映画.comかなんかで『グリーンブック 』の関連に出てきて、アマプラの無料対象だったので観てみた。

こちらも、「高貴にして卑賤」なる者と、変わり者のパンピーの友情物語である。
しかし、映画のトーンは、人種差別を描いた『グリーンブック 』より遥かに重い。

これは、人間としての王の物語ではなく、王としての人間の物語である

後の英国王ジョージ6世ことヨーク公アルバートは、吃音症を抱えている。
少々事情もあって公の場で語る機会も少なくないアルバートにとって、これは困った病だ。
冒頭部に登場する医師は、治療と称し、彼にタバコを奨め、ビー玉を口に含んだままの発声練習を課す。
言うまでもなくなんの治療効果もありはしないが、この際それはどうでもいい。
「立派な王族たれ」という周囲の圧力が、彼に苦痛を強いているということだ。

その最たるものが、アルバートの父にして現英国王、ジョージ5世である。
ジョージ5世は、アルバートに期待をかけている。
なぜ次男である彼に期待するかというと、長男、つまり次期王位継承者であるデイヴィッドが、ロクデナシだからだ。
ジョージ5世は、アルバートに王を支える王弟たることを、あるいはデイヴィッドの「リリーフ」たることを望んでいる。

この時代のウィンザー王朝に、もはや政治的権力はない。
内政も、外交も、首相を頂点とする議員たちが行っている。
王室に残されたもの、王室を王室たらしめるものは、権威のみだ。
そして、その権威を支えるものは、国民へ向けて語る――ご機嫌を取る――言葉なのだ。

時は1930年代、ラジオ放送が一般化した時代である。
ラジオを通じて語られる言葉は、瞬時に英国全土へ行き渡る。
逆に言えば、ラジオで語られないことは、国民へ語られないのと同じである。
王室は、ラジオのための声を必要としていた。

ゆえにジョージ5世は、アルバートに対し、今は自らが担っているところの、「王室の声」たることを求める。
ジョージ5世は、大層厳格な人物であったそうだ。
マイケル・ガンボン演じる本作のジョージ5世も、はっきり言ってメチャメチャ怖い。
その、白い髭を蓄えたゼウスみたいなじいさんが、地を揺るがす雷霆の如き「声」で命じる。

「Relax!!!」

できるかーーーーーーーい

明らかに、ここにおいて、「」とは「父性」であり、「抑圧」の頂点である。
だが、ことアルバートに限って、その王に命じられるのは、王たること、王に相応しい男たることなのだ。
ここに倒錯があり、本作のテーマがある。

ところで、アルバートは既に父である。
本作で描かれるアルバートの妻エリザベス、そして二人の娘たちは、彼にとって唯一、飾らない自分を肯定してくれる存在だ。
(長女の方が、後の(現)英国女王エリザベス2世。本人閲覧済かつお気に召したらしい)
エリザベス(母親の方)は、アルバートの治療のため心を砕いているが、これは明らかに、吃音に苦しむ夫を救うためだ。
娘たちに至っては、父の吃音を恥じる様子など一切見られない。父のたどたどしい物語(ルイス・キャロルがアリスに語ったような)を求め、喜び、全身で無垢な愛情を表現する。
温かい家庭だ。
雑な言い方をすれば、極めて母性的な家庭である。
ここに吃音治療の必要はない。
面白いのは、本作のもう一人の主人公、言語療法士ライオネルを連れて来るのが、妻エリザベスだということだ。

エリザベスは、自らお忍びでライオネルのオフィス(王族が来るような場所ではない)を訪ね、丁々発止のやり取りの末、彼に治療を依頼する。
そして、全く乗り気でない夫を、オフィスまで引っ張ってくる。
アルバートは、自身をバーティ呼ばわりするライオネルの不敬罪モノの態度、意味のわからぬ治療法、なにより「トラウマ」に踏み込んでくることに腹を立て、一度は治療を拒否する。
しかし、耳を音楽で塞いだ状態で録音した、自身のあまりに流暢な語りを聞き、エリザベスとともにライオネルのオフィスへ通うことになる。
(この時、ライオネルは賭けの勝ち分として1シリングを要求する。これが面白いことになるのだがそれは後ほど)

ここで明らかなように、アルバートの吃音は心因性のものだ。
つまり、アルバートの口を塞いでいるものは、周囲からの抑圧である。

ライオネルが、自身と「バーティ」の「対等」を強調し、自身をファーストネームで呼ぶよう求めるのは、恐らくそのためだ。
「王子様」に媚びへつらっても、一方的に医者の「正しさ」を押し付けても、そこには「抑圧」の影が差す。
だから、ライオネルは薄汚いオフィスを「私の城(My castle)」と称し、堂々と、「王」の如く振る舞う。
ライオネルはオーストラリア出身の移民である。役者を志すも、オーストラリア訛りのせいもあって成功していない。
だが、その言葉にまつわるコンプレックスを、アルバートの前では一切見せない。
そして彼は、アルバートの反発や怒りを、決して否定しない。
むしろ、アルバートを挑発し、「子供」じみた癇癪を呼び起こすかにすら見える。
そして、自ら患者と同じ立場に「降り」、率先して奇矯なトレーニングを実践し、アルバートを巻き込んで塵埃にまみれる。

ある意味で、これは「善き王」の姿といえる。

本作の描写からは外れるが、二次大戦中、ジョージ6世は危険なロンドンを離れず、自ら民衆と同じように食糧の配給を受けたという。
バッキンガム宮殿に爆撃を受けた際、エリザベスは 「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンド(※爆撃の被害が大きかった地域)に顔向け出来ます」と言い放ったという。
ジョージ6世夫妻は、国民の苦難に寄り添おうとした王族であった。
しかし、高価なドレスでイーストエンドを慰問したエリザベスは、罵声を浴びせられることもあったという。

相手の立場・心情を理解しない友愛のアプローチは、時として暴力やハラスメントに近しいものとなる。
ライオネルが賭けの勝ち金として1シリングを求め、アルバートが(小銭を)持ってないと拒否するやり取りは、作中何度か繰り返される。
これ自体はじゃれ合いみたいなコミカルシーンだが、実は深刻な問題を孕んでいると思う。
ライオネルは、100ポンドくらい要求すればよかったのだ。
王族にとって、1シリングだけ払うことは、100ポンド払うよりも難しいのだから。
払えないと知って重税を取り立てる王みたいなものだ。

一方、ジョージ5世の死に伴って即位した、エドワード8世ことデイヴィッドは、明らかに「悪しき王」である。
デイヴィッドの悪王性は、二つの観点から指摘できる。
一つは、アルバートに対するイジメ
幼少期のアルバートにたっぷり傷を残したこの兄は、互いにオッサンになった後も「ババババババーティ」とアルバートの吃音を揶揄する。
「恐ろしい父」の歪んだ模倣、悪政下で私腹を肥やす悪代官みたいなものだ。
もう一つは、王としての無責任
悪い女に入れあげて、王家の財産を傷付けて、国民へ目を向けようとしない。
不全の王、「大人になりきれない父」がエドワード8世だった。

彼が「悪しき王」であることはわかる。
では「善き王」とはどのようなものか。
悪い例の反対をやればいいのか。
つまり、
子である国民をあるべき姿へと導き、
率先して神の子としての責務を背負う、

ことだろうか。

当時の状況に照らして、このおぞましさがお分かりいただけるだろうか。

ジョージ6世の即位が決まるあたりまでは、観ていてひたすら辛かった。
恐ろしかった父の衰退と死。
放埓なデイヴィッドへ、かつての父と同じような規範の押し付けをせねばならない状況。
アルバートを信ずるがゆえに戴冠を望むライオネルとの訣別。
ライオネルの妻の述懐「偉大になりたくないのかも」。
謝罪のためにアルバートを訪ねるも、門前払いを食らい続けるライオネル。
高まるドイツとの緊張と、戴冠への圧力。
エドワード8世の、あまりに堂々たる退位宣言。
額縁から突き刺さる、歴代国王の視線。
そして、娘たち、いや王女たちから「陛下」へのカーテシー。

あまりにつらすぎて、私はスピードワゴン声のモードレッドリリィになっていた。
やめろーッ! 父上ッ! そいつを抜くんじゃあないッ!
人間じゃあなくなっちまうんだぞッ! やめるんだァーーーッ!

しかし、アルバートは即位を迎えてしまった。
帝王学さえもないままに。
彼は、「父」たるがゆえに「国父」たりえたのではない。
抑圧に抗う力を持たない「子供」たるがゆえに、「国父」に祭り上げられたのだ。
この時代の英国王とは、民を支配するどころか、民に仕える存在だ。

「"God save our... King."
They don't mean me.」

国民に必要なのは王冠の台であって、アルバートという個人ではない。
彼には戴冠式が待っている。
全国民の前で、宣誓をしなければならない。

アルバートはエリザベスを連れ、ライオネルのオフィスを訪ねた。

ここで、アルバートもライオネルも、明らかな歩み寄りを見せている。
自らライオネルを訪ねたアルバートは、吃音の原因になっただろう、幼少期の辛い記憶を語る。
(彼は乳母からも虐待を受けていた)
父への恐怖を忘れたくても、1シリング銀貨に父の顔があると言うアルバートに、ライオネルは「では持ち歩くな」と言い放つ。

このやり取りがあまりに素晴らしいので、詳しく触れたい。
まず、二人の持ちネタ会話に引っ掛けて、父への恐怖を自ら茶化してみせるのが既に面白い。
緊張感あるシーンだけにクスリときたし、笑いで恐怖を乗り越えようという切実さにも見える。
ライオネル側から見ると、賭けの勝ち金を払わなくていいと言ったことになる。
勝ち金が象徴するのは、医者(もどき)と患者としての契約的関係と捉えると、これは「友達になろう」という意味にも聞こえる。
さらに、アルバートの「王族性」に対する、ライオネルの「庶民性」、言い換えるなら「父性」に対する「子性」を象徴するのが1シリングだとすれば、この文脈でそれを捨てるとはつまり「お前自身のためにこそ王になれ」とも読み取れる。
そして、「友達になろう」と「王になれ」が並存するということは








ライオネルは戴冠式に同行するが、大司教は「移民かつ平民」である彼を追い出そうとする。
人妻かつアメリカ人」の女のように。
しかしアルバートは、強権を揮い、ライオネルを王族の、家族の席に着かせる。
彼の親友を。
彼が「ローグ」と呼ぶ男を。

そう。
この期に及んで、
よりを戻して家族扱いして弱音を吐いて助けてもらって、なおもアルバートはライオネルの願いを叶え、ファーストネームで呼んでやることはなかった。

ここだ。
ここが、アルバートとデイヴィッドの、決定的な違いなのだ。
真に王たる者と、そうでない者の違いなのだ。

アルバートは宣誓をやり遂げる。
彼は確かに、自らの意思で、国王たることを神と民に誓った。
選定の剣を抜いたのだ。
そして。
王として立ち、王として認められたアルバート、いやジョージ6世は、迫り来るナチスドイツと対峙することになる。

ジョージ6世が対するはアドルフ・ヒトラー。
スピーチの天才である。
ヒトラーは、巧みな弁舌をもって国民を扇動し、英国との戦争へ駆り立てる。
狂奔。
本作では仄めかされるのみだが、英国首相チェンバレンはヒトラーの危険性を過小評価し、宥和政策でもって余裕を与える失敗を犯した。
政治家が育て上げた脅威。
それとの戦いを、ジョージ6世は、国民に訴えねばならなかった。

予告編を見て、ここが強烈に引っかかっていた。
ここを確かめるために観たと言っても過言ではない。
ジョージ6世は、ヒトラーと戦うためにヒトラーにならねばならない
国民を狂奔させねばならない。
この葛藤をどう描くつもりなのか。

結論を書く。
本作では、この葛藤そのものを描かない
ジョージ6世は、ただ長大なスピーチをこなすことに汲々とし、国民を狂奔させる罪に(少なくとも演出上)向き合うことはない。
しかし、納得が得られないわけではなかった。
納得せざるを得なかった。
ひとえに、彼がライオネルをローグと呼ぶがゆえにだ。

アルバート曰く、ウィンザー王室は会社である。
社長」は責任を取るためにいる。
部下がマズいことをやらかした時、自分の言葉で弁明するためにそこに座っている。
ジョージ6世が、戦意高揚スピーチを行う理由はそれだ。
王たる者の責任だからだ。
ジョージ6世は逃げない。
父ジョージ5世が、一番ガッツがあると認めた男は逃げない。
逃げることを自分に許さない。
唯一許したのは、ライオネルを側に置くことだけだ

ジョージ6世は、再びスピーチに向かう。
直前まで、ジョージ6世はハチャメチャ緊張し、ライオネルに当たり散らしながら練習している。
本番。
エリザベスもジョージ6世の側を離れる。
ライオネルのみが残る。
ライオネルは、オペラの指揮者のように振る舞い、苦しくも楽しかったトレーニングを思い出させ、一心にジョージ6世、いやさ「バーティ」の緊張を解こうとする。

献身の甲斐あって、ジョージ6世は9分に渡るスピーチをやり遂げる。
高官たちがジョージ6世を賞賛する。
エリザベスは夫を労い、夫の支えになってくれた「ライオネル」に感謝を告げる。
ジョージ6世も親友たる「ローグ」に礼を述べる。
国王一家はバルコニーから、詰め掛けた国民に手を振る。
それを見守る、なんとも言えないライオネルの表情。
こうして、本作は幕を下ろす。

もう明らかだろう。
ジョージ6世が彼の親友を「ローグ」と呼び続けるのは、例え親友であれ、いやだからこそ、「完全な対等」になってはいけないからだ。
ジョージ6世は「父」、ライオネルは「子」だ。
いや、ジョージ6世その人を除く、全ての英国人が「子」なのだ。
エリザベスすら例外ではない。
エリザベスは「殿下(Highness)」であって「陛下(Majesty)」ではない。
頂点は常にひとり。
そうではなくてはならない。

本作において、王がどのような言葉を放つかは、本質的な問題ではない。
国民を戦争に駆り立てたことを取り上げれば、最も重要なテーマから焦点がブレてしまう。
それが祝福であれ狂奔であれ、誰の失敗の結果であれ、国民へのメッセージは王が語らねばならない、ということだ。
そして、ジョージ6世は、その責任を引き受けた――引き受けてしまった、ということだ。

本作はハッピーエンドではない。
葛藤への明快な解答は与えられない。
二人の友情は枷をかけられたまま成立する。
苦い、恐ろしく苦い映画だ。
だが、その苦みは上質で、澄み渡っていた。
素晴らしい映画だったが、年一本くらいでいいかな、ここまで苦いのは。

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