見出し画像

ウマ娘二次創作小説/蒼炎の彫刻


1/

雨上がりのバ場は、少し重く。沈み込む度に、走者の覚悟は大丈夫かと語りかけてくるようだった。湿度も高い。まだ春先だがやんわりと汗ばみ、土と芝の混ざった匂いが鼻腔を通り抜けていく。トレーニングを見届ける私にも、それらが走者を絡めとる見えない蔦のように張り巡らされ、スタミナをゆっくりと、しかし着実に奪うことは容易に想像がついた。私はこの空気を記憶で、身体で、感情で識っている。絶え絶えの呼吸で、弾けんばかりの感情のなか、喝采を浴びたことを。

目線の先ではウマ娘が一人駆けていた。トップスピードではないものの、流すような速度でもない。既に10周目だった。Tシャツは透けるほど汗をかき、下のジャージはやもすれば汗を絞ることすら出来るかもしれない。呼吸は荒い。いくら身体能力が人間のそれと比べて優れているとはいえ、体の負荷は相当あることを示していた。

本番は練習と異なり、緊張や他者の思惑が交差する。この中でいつもの実力を発揮する為には目標距離をすんなり走れるスタミナは勿論、他のウマ娘を意識したレース展開を考える立ち回り、競った時は気持ちの強さがものをいう。そしてそれは誰よりも準備をした、練習を行ったという自負があって初めて築けるものだ。ライスの持論だった。彼女は実際にそれを実行した。傍目には常軌を逸するほどの練習を。__そしてそれは、多くの栄光によって実を結んだ。

走っているウマ娘が幾度目かの最終コーナーを廻った所で、ライスは声をかけた。

「これで最後。お疲れ様、ラフトちゃん」

走っていたウマ娘が速度を落とし、クールダウンを意識しながら、ライスの方に向かってくる。疲労の色は濃く、しかし眼には強い意思を宿した眼。

これでは足りないのではないか。自分はもっと出来る。必要な分だけ。その必要は、まだ先ではないのか。そう訴える眼だった。

「走行距離もラップタイムの変化もほとんど落ちていない。2ヶ月前とは全然違うよ。確かな力がついてきてると思う。今日はここまでにしようね」

ライスがそう伝えるとなにかを言いかけて、しかし飲み込んで彼女、フェザーラフトは返答する。

「分かりました。お疲れ様です、ライストレーナー」

ラフトの脚をマッサージしながら、その言いかけた言葉の先を感じながら、発せられた言葉を改めてライスは噛み締めた。

ライスシャワー、彼女はこのトレセンのトレーナーとなっていた。今は亡きお兄様の後を追って。



2/

痛みは春の天皇賞を勝利した直後から知覚していた。足首にずきりとする痛み。このぐらいの痛みなら何度も経験してきた。そしてその痛み以外は、自分でも驚く調子が良かった。重バ馬でも、良バ場でも、登りでも、下りでも。リズム良く走ることができた。あの時のライスシャワーは間違いなく、一番人気の有力バだった。

宝塚記念。最終コーナを回る時、それは起きた。足が抜けるような感覚。直後に響く鈍痛。力が入らない。好位置につけていた自分がどんどん抜かれていく。結果の問題どころではなかった。絶対的な自信を与えてくれていた信条の練習量は、それだけライスに負担をかけていた。

ターフから戻ってきたライスを迎えたのは、憔悴したお兄様だった。自責の表情。ライスへの心配。それを隠そうとして、隠しきれない「大丈夫だよ」の声。ライスもお兄様の期待に応えられないことに、自責の表情を浮かべていた。

誰も悪くない。いや、誰もが悪かったのか。今となっても分からない。ウマ娘として復帰できるか不明の怪我を前に、全てを黒い霧が覆っているようだった。

お兄様はあらゆる手を尽くした。治療はもちろんのこと、精神的な細やかなケアも学び、ライスの自責を少しでも和らげようと努力した。神仏にも祈った。

それが、更なる不幸となった。

トレーナーの訃報が届いたのは夏の盛りだった。ゆっくりとではあるがライスの足が治りつつあった、そんな時だった。トレーナーは健康祈願の願掛けをするため、地方の神社に毎週のように出向いていた。疲労の蓄積も忘れて。交通事故だった。

不幸な報せは、快方に向かっていたライスの心を壊すのに十分だった。そうして、ライスは走ることを止めた。お兄様がいなくなった。自責は、支えきれない重さになっていた。


トレセン学園を去り、ひっそりとライスは現役を引退した。足の怪我がどうだったかはもはや誰にも分からない。


再びライスが姿を表したのは数年後のことだった。トレーナーとして。お兄様の意思を継ぐために。あの時取れなかったものを取り返すように。

3/

「トレーニング負荷を上げてください」

目黒記念。フェザーラフトは2着だった。僅かに足りない。それでも、着実に力を付けていた。しかし本人は納得がいかないようだった。その後の練習だった。

「今の負荷でも十分に結果は出ているよ。順当に入着できている。今のままでも……」

「ライストレーナーは、選手のときそんな結果で満足していたんですか。違うと聞きました。誰よりも練習していたと。そして、絶対に満足しなかったと。私は、貴方のように練習をして勝ちたいのです、トレーナー」

何も言い返せなかった。その眼をライスは知っていたからだ。蒼い炎のような眼。彫刻のような意思。

その日から、トレーニングメニューは大きく変化した。鋼鉄の意思に沿って、肉体も彫刻のように絞られていく。タイムは着実に縮まっていった。ライストレーナーにしか出来ない練習構築だった。


4/

当日を迎えた。宝塚記念。雨上がりのバ場は重く、ずっしりと体力を奪っていく。初夏の蒸し暑さも拍車をかけていた。息を吸うのも纏わりつくような、重みのある空気。粘性は温度に反比例するが、そういったイメージとならないのは湿気のせいだろう。

意思の体現者となったフェザーラフトはその練習成果を遺憾なく発揮した。上々のスタートを切り、静かに好位置につけ、周囲の喧騒を冷静に観察する。最終コーナーで勝負をかける。幾年か前の、ライスの姿そのものだった。


そして、その後も、ライスの姿そのものだった。

急にラフトの体から力が抜けるのが見えた。そして、苦痛に顔を歪める姿。それをライスに悟られまいとする振る舞い。するすると下がっていく。馬群から大きく離れ、どんどん遅くなっていった。『あの日の私』がそこにいた。

気付いたらコースに入り、駆け寄っていた。試合結果が背後に表示されているが、そんなことはもうどうでもよかった。

「ラフト、怪我していたの………?私のせいだ。ごめんなさい。気付いていれば、あんなトレーニングを……」

「謝らないでください、ライストレーナー」

ラフトの歯を食いしばった、意思の宿った眼がライスを見据える。

「ライスさんは、自分か怪我した時トレーナーを恨みましたか?トレーナーのせいと思いましたか?そうじゃないでしょう。私は、私の意思で選んだ。その結果は、私の責任です。トレーナーさんのせいじゃない」

何も言えなかった。黒い霧の中から過去の自分が抜け出てきたようだった。意思の塊。あの時だって、自分は一つも後悔していない。後悔したのは、お兄様に自責を与えてしまったことだけ。気付けば嗚咽を漏らして泣いていた。お兄様に大丈夫と言えなかったあの時の私と、ラフトに大丈夫だよと言えなかった今の私に。


病院にラフトをつれていった後、ライスは夜の阪神競バ場にいた。喧騒は過ぎ去り、空気もいささか落ち着いている。湿度はそのままだった。むせ返る湿気。雨が降りそうだった。

誰もいない中、スタートラインを切る。ここまでバ馬は重かったのか。現役を退いている体が、早々と悲鳴を上げていく。鉛のような足。膝を一つ一つ上げて前に踏み出すことを躊躇わせる。腕の振りだけが気を急いている。フォームは滅茶苦茶だろう。肺の中の空気があっという間に消費され、酸素をもっとくれと身体中の細胞が要求する。

鼻から感じるは草の匂い。土の匂い。そして雨の匂い。雨が降ってきている。芝に滑りそうになる。最終コーナーを廻るときには泥が跳ね、全身黒くなっていた。

何年ぶりかのゴールを切った。今の全てを使いきった。体力も、感情も。

何をしているのだろう。何をしたいのだろう。何をしたかったのだろう。

お兄様のことを思い出した。お兄様は私に何をして欲しかったのか。

大声で泣いていた。熱はゆっくりと引いていく。芯から冷えていく。たくさん遠回りをした。そして、『何をしたかったか』を思い出した。

泣き疲れた時には、雨は止んでいて。

大きな月が、顔を出していた。



5/

満員の阪神競馬場、フェザーラフトの怪我から二年の時が経っていた。あの時とは違い、連日の晴天でバ馬は十分に乾いている。六月とは思えない熱気。それは気温のせいだけではないだろう。宝塚記念。史上初の出来事が起きている。

1つは、現役選手ウマ娘とトレーナーウマ娘の同時G1出走。

もう1つは、引退撤回ウマ娘のG1復帰。大きな怪我と、ブランクを乗り越えての偉業だった。


__同じ眼をしたウマ娘がいる。

ゲートに入り、スタートを待つ。

__絶対の研鑽を胸に自信を持ったウマ娘が二人いる。

静寂が訪れる。ゲートが開くその瞬間を汚さないように。

__不可能を可能にしたウマ娘がいる。

そして、奇跡は現実となる。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?