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本物の「弱者男性」に関する違和感

これは数年前から語られてきた弱者男性、またはキモくて金のないおっさんの話である。特段目新しい話はなく、繰り返される話でもある。解決策もない。ただただ、語られることの違和感についてどっかに残そうと思って書いている、そんな文だ。同じように違和感を感じた人に読んでもらいたい。


1.簡単な用語の説明

・弱者男性

弱者男性という言葉に明確な定義はないらしい。この言葉は成人男性において、低収入もしくは非モテの属性を持つ個体に付与される名称であると考えられる。年収の閾値や、非モテの定義も曖昧だ。先日のナインティナインの岡村氏の風俗発言があった際「岡村隆史は弱者男性か?」という問いをツイッターで立てたところ六割強が強者男性であるという回答が得られた。そのぐらいの定義である。

・キモくて金のないおっさん

これは弱者男性の実像を表す言葉であると同時に「かわいそうランキング」という概念で使われた言葉だ。かわいそうランキングは、救済される弱者は他者からみて可哀想さが高い順から救済されるという概念である。新宿のホームレスより捨て猫が、アフリカの子供達が優先される仕組みがここにある。欧米のセレブは鯨の保護ややBLMにはお金を出すが、白人貧困者やアジア人には冷淡である。つまりは、そういうことだ。


2.語られることの意義と、語る能力について

これらは一柳良悟氏と永観堂雁琳氏あたりがこの言葉を使ったのち、御田寺圭氏が紹介して一気にツイッター界に浸透したと自分は認識している。それは平等を謳うリベラルへの反証であり、声なき声の具体化であった。

これらの浸透はいくつかの変化をもたらしたように思う。それはミソジニーの台頭と弱者デカールの大きさによる椅子取りも含まれていた。前者は女性蔑視を内包するインセルに傾く弱者男性を生んだ。また、ミソジニーは男性だけではない。多くのフェミニストに傾倒する女性も、ミソジニーに因ると思われる。

また弱者男性が可視化されたとき、弱者女性との間で「どちらが救われるべきか」という議論が発生した。不毛な椅子取りゲームである。それは更なるミソジニーを生んだ。その後は進化心理学や統計の名の下に行われた主語の大きい分析である。かかわった多くの人が疲弊し、傷つき、変化した。間違いなく大部分は不毛な時間である。

さて、ここでこれらの概念を語る能力についてである。私的にはここが一番の関心どころである「語り部」の属性と「語られること」の同一性についてだ。これはよくある例である。産めよ増やせよと主張する政治家が独身子無しであることを批判される。男性性を降りればいいとする女優が、イケメンセレブ男性をパートナーに選ぶ。貧困を問題にする社会運動家が自らの運営する法人では満足な給与を与えない。そんな例が沢山世の中には散らばっている。

弱者男性を語る際にも勿論この構図がある。提唱者である一柳氏にはパートナーがいたり、弱者男性を語ることで知名度が上がった人もいる。マネタイズできている例も。

自分はこれらが問題であると言っているわけではない。語るためには知性が必要である。社会主義を掲げたのは一部のエリートであるように、実際に発生している問題を問題として浮かばせるには語り部が必要なのだ。ただ、問題が認識された今、弱者男性やインセル、フェミニストも意味が消費されていってどんどん陳腐になっている気がするのだ。「弱者男性しぐさ」とも言えるムーブがあると思う(自分がそうではない保証はない)。

これらがすすむと言葉が意味を失い、所謂確実に存在する「本物の弱者」が再び不可視化されるのではないかなぁとか、思っている。もとより救われにくい存在でもある。そんな違和感を感じた。

最後にこれは自分の霊感なのだけど。本物の弱者はどこで観測されるのか。ツイッターでなら、ニュースサイトや有名人にぶら下がる無数のクソリプを送る泡沫アカウント達。あの辺だと思うのだ。勿論その先には、ネットにすら繋がってない発信していない弱者達が広がっている。

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