嫌いな人をしっかりと嫌えば幸せは訪れる

「アイツさえいなかったら楽しい職場だったのに」
決して円満退社とは言えない辞職を何度もしてきたが、そこには必ず嫌いな人がいた。そいつさえいなかったら続いていたかもしれないが、そこにいるものはしょうがない。こちらが去るしかない。

子供の頃から逃げ続けてきた。戦って倒した記憶はない。
小学生の頃はサッカーをやっていた。足細い、足遅い、スタミナない、おまけにボールの扱いも下手くそで試合には出れなかったが、サッカーそのものは好きだったので毎日練習には通っていた。
部員の中に1人イヤなヤツがいた。サッカーは上手かったが人を見下すイヤなヤツだった。結局その男と顔を合わせるのが苦痛になり6年生の引退時期まで続けずに途中で辞めた。
中学校でもサッカーを続けるという選択肢もあったが、その彼と毎日顔を合わせる気にはなれずサッカー部には入らなかった。

代わりに入った卓球部。顧問をすぐに嫌いになった。すぐに人を殴るやつであんな男を「先生」と呼んでいた自分が情けない。こちらが向こうを嫌っているのも伝わっていたので、余計に殴られた。試合には出たいので従ってはいたが、本当にイヤなヤツだった。

同じ部活内の同級生とも揉めた。
とある雨の日、貸したCDがずぶ濡れになって帰ってくるという出来事があった。
自転車通学だったそいつは雨に濡れる可能性があるにも関わらず防水性ゼロのカバンにCDをそのまま放り込んで入れてきたのだろう。なんというガサツさ。
中の歌詞カードや裏ジャケットもびしょびしょに濡れてしまい見栄えも悪くなってしまった。
「これはどう考えても弁償だろう」と僕は詰め寄ったが、全く聞こうとしない。
最終的には殴り合いの喧嘩になり、それ以来そいつとは一言も話していない。

父の仕事の都合で転勤。
中学3年生からは見知らぬ土地でのアウェイ戦が始まった。
クラスメイトに恵まれ序盤戦は好調だったが、他クラスの不良たちに目をつけられてしまった。
CDを年貢として徴収されたり、自宅のエアコンの掃除をさせられたり、「いけてる軍団」とは程遠い下っ端軍団での生活を強いられた。ヤツラに関しては「嫌い」より「恐れ」の感情の方が強かったかな。例えるならば北斗の拳の世界。
当然ヤツラのことは嫌いではあるのだが、学校に行かなくてはいけない理由があったので仕方なく通った。毎日毎日なるべく目立たないように過ごした。学校の外でもお金は靴下の中に隠した。今ならそんな学校には絶対に行かない。

高校では幸いそういうことはなかったかな。誰かに対して激怒した記憶がない。
それは多分幸せなことだったんだと思う。
何も起こらないという幸せ。だれとも揉めないという幸せを謳歌した。

大学でも同じような感じ。とくに何も起こらなかった。
適度にムカつく奴はいたが、常に一緒に行動するわけじゃないから気は楽だった。
中学校のように教室という地獄のような密室で何時間も一緒に過ごす必要はない。「逃げる」という選択肢のある大学生は僕に一番向いていたが、それは人生のうちのわずか4年間しかない。

社会に出てからは、自分勝手なヤツとイヤというほど対峙し、激しく消耗した。
いかなる理由があっても、やたらと不機嫌を表明する人間を僕は絶対に認めない。
その件に関しては話が長くなるので、それは置いといて。

学校、社会問わずどこの世界にも必ずわがまま放題の奴が存在する。そしてそいつらとまともに向き合ってはいけない。
僕が出した結論はこれだ。

うちはメンタルが弱い精神病の家系だ。
おじさん、おばさん共に精神病を患い入院。おじさんは失踪後、白骨死体で発見された(事件性はない)。おばさんは現在も精神病院に入院中で退院の見込みはない。
母はかろうじて踏みとどまったが、若い頃はヒステリックで大変だった。

僕が重大な精神疾患を抱えずに済んだのは、おそらく必要な時にきっちりと逃げたからだと思う。イヤなヤツと真剣に向き合わなかったからだ。

絶対にああいう人種と真剣に向き合ってはいけない。
必ず敗北することが確定している負け戦だ。
戦えば戦うほど不幸になる。

嫌いな人と過ごす時間、それを地獄と呼ぶ

僕の中では学校とは繊細な人間だけが消耗し、病んでいく場所だという認識です。それは非繊細な人種には決して理解できないこと。

「あの人、最近学校来ないねえ」で片付けてはいけない事を許容してしまう狂気が学校にはある。

そして学校とは物を考えることを諦める場所。思考停止を学習する場所。
まともに向き合ってはいけないというのが僕の考え方だ。

学校は運によるアタリ、ハズレ要素があまりにも大きく。多くの人にとって幸せを追求できる場所ではない。何かを真剣に学習したいなら1人で本を読むのが正解だ。

学校教育で唯一正しかったこと。
「本を読みなさい」
学校の先生よりも賢い人々が書き残した書物、それを読みなさいと薦めるのは先生としてかなり賢明な判断。
一番従わなければいけないことに従わなかったことを残念に思っています。

社会とは不機嫌を表明する人を我慢する場所。
と書くと絶望しかないと思われるかもしれないが、学校と違うのは選択の自由があるということ。自分に向いている職種、職場を真剣に追求すれば幸せにはなれる。
そのためにもきっちりと自分の嫌いな人を適切に嫌うことがカギになってくる。
注意してほしいのは反撃・復讐しようとしないこと。経験から言えることはすっと身を引くのがベストです。復讐なんかしなくてもそのうち忘れますから。

やりたい仕事、やりがいがある仕事であっても嫌いな人が1人いるだけで最悪の職場になってしまう。金でそれを我慢できる人もいれば、そうでない人もいる。そこには個人差がある。
どちらにしても嫌いな人と長く時間を共有することを僕はオススメしない。
どう見積もってもその先に幸せは待っていないからです。

どうか積極的に逃げ場を作ってください

学校は逃げ場がないと書いたが、かつてはそういう人にとって自宅が逃げ場だった。
僕も学校での精神的疲れを自宅で癒していたと思う。ドラクエやったり、ファイナルファンタジーやったり。漫画読んだり、ギター弾いたり。現実を忘れ、自分の世界に没頭することでリセットできた。

社会に出てからも映画を見たり、好きなアーティストのライブに行ったりして癒していた。いろいろなリセットの方法を知らないうちに学習し、無意識のうちに実行していた。

中高生のSNSは本当に危険だと思う。
絶対に必要なこの孤独&没頭リセットシステムとそのために必要な時間を奪うからです。
本来は1人にならなければいけない時間を誰かと繋がってしまう。
そしてその繋がりの中でさらに攻撃を受けてしまう。

SNS上では毎日が8月31日であるかのような絶望感が漂っている。
僕がSNSを辞めた理由はこれだ。
繊細な人は決してSNSと真剣に向き合ってはいけない。
自らの感情を1人で処理できない中高生ならなおさらです。

大人でも人によっては病んでしまうSNS。
僕は純粋な子供たちこそ、やらないほうがいい思います。
LINEで新しくオープンチャットなるものが始まりましたが、楽しく活用できるほどのセンスや思いやりを持つ人々の割合を考えると、また新しい地獄を作りだすつもりなのでしょう。

長々と書いてきましたが、まとめると以下の3つです。

・人を嫌うのは当たり前の感情
・反撃はしない方がいい
・我慢は無意味、まずは逃げよう

嫌いな人々をしっかりと嫌ってください。罪悪感を感じる必要は皆無です。
嫌いな人との出会いを増やすだけなので無意味に人とつながるのをやめましょう。
そうすることで好きな人々、あなたと相性がいい人々へ使える時間が増えますから。
それが幸せへの第一歩です。

ありがとうございます。有意義なことに使います。