文化作品に触れることの重要性

まだ僕が中学生の頃、当時熱心に聞いていた音楽の歌詞に母が文句をつけてきました。

「人の不幸が大好きサ」
ここが彼女には引っかかったようです。
当時35歳前後だったはずですが、その年齢にしては感性のレベルが低すぎると言わざるを得ない。

人の不幸が大好きな奴が、「人の不幸が大好きだ」と歌う。そんな安易なことが文化として成立するはずはない。これは強烈な皮肉、裏にメッセージがあるんですよ。
綺麗な言葉を並び立てるだけじゃない。あえて過激な言い方をする。
それによって真のメッセージを伝える。
表現には、そういう技法もあるのです。

それを理解できず、「人の不幸が大好き」という一部分だけに反応する。
読解力がないというか、行間を読み取る能力がないというか。
無駄にマジメなんですね。

父も母も音楽聴かない、映画観ない、本読まない。娯楽はTV鑑賞一筋40年です。
あの家は朝から晩まで一日中テレビがついています。テレビ嫌いの僕はあそこで暮らすとそれだけで発狂します。

団塊の世代ってそんな人ばっかりではないですよね。

そんなのは個人の自由なのでいいのですが、それが原因で明らかに退屈な人生を送っている。発言や行動から人間の深みを全く感じることができない。
ニュースや芸能人の発言をなぞるだけ。

会話をする気にはなりません。絶対に噛み合わないから。

■文化に触れるということは感性の幅を広げること
限りある人生で自分が経験できることには限界があります。だからこそ本や小説を読んだり、映画・アニメを観たり、音楽を聴いたりするのです。他人の生きざまや価値観・世界観に触れ、良いものは積極的に取り入れる。その繰り返しです。

どれだけ多くの文化に触れたか。
あまり収入には直結しませんが、これがその人の人生の終点を決めるような気がします。
文化の程度が、人生の後半戦に効いてくる。

決してどれだけマジメに働いたかではない。
マジメ一筋だった人から先に認知症になっていく。よく聞く話ですが、そうなるのも仕方ないと思いますよ。自発的に何か楽しいことをするということができないのですから。

精神に良いマジメと悪いマジメがあって日本人には悪いマジメが圧倒的に多い。
「これさえやっておけば自分は大丈夫」
完全な思考停止状態。
そんなことを40年間続ければそういう人間になってしまいますよ。

感性が死んでしまっているから、面白いものを面白いと思えない。気づけない。

腹ばかり立てる。
気力がない。
政治家の批判ばかり口に出す。
他人の悪口ばかり言っている。
やたらキレやすい。

そんなダメなおっさん、おばさんになるのです。

そこそこ面白いことくらいなら見渡せば周りに転がっていますよ。
それに気付けるかどうか。それが文化の差、感性の差。

頭の固い人にはなりたくないですね。
批判なんて本当に誰にでもできますから。

気に入らないものを批判する。
誰にでもできることに何の価値もない。

ありがとうございます。有意義なことに使います。