『故人の言葉』

通夜に来るのはいつぶりだろうか。式としての流れなどはほとんど忘れており、椅子に腰掛けてただ進行に従う。人々が夕方に集合するという通夜の特徴は、どこか祭りと似た感覚が呼び起こされる。不謹慎な錯覚だ。

大学時代の先輩が亡くなった。消化器系の病気が原因だと聞かされた。2週間前に入院をしたことは本人との連絡を通じて知っていたが、「大したことじゃない」と言って病気の詳細は教えてもらえなかったし、見舞いに行くべきかとぼんやり思っているうちに突然死んでしまった。
先輩は律儀な人だった。人に心配をかけさせることを嫌い、朗雄という名前の通りいつも朗らかな雰囲気とともにあった。だからこそ今回の急逝も、案じさせることのない先輩らしい死であったと感じてしまう。

最近の話題といえばとにかく新型のアレの流行で、感染による死を誰もが少なからず連想しつつ生活しているようだが、先輩の訃報を訊き、結局ウイルスとかは関係なく死ぬときは死ぬんだよなと気づかされた。
棺の横に除菌用のアルコールウエットティッシュがあるのが目立つ。どういう意図なのかは分からないが、昨今の雰囲気に圧されてとにかく置かざるを得ないという背景は察せよう。しかしまあ我々は死人の前で何に抗おうとしているのか。数十キロの塊という明らかすぎる死の証明を目の当たりにしつつもなお、視界に捉えられないウイルスに負けまいとする姿勢はたくましいと言えばたくましい。

先輩の母親が挨拶を始めた。
「皆さま、本日は朗雄の通夜にお集まりいただきありがとうございます。生前、病に伏している中で、もしものことになったらと故人が書き遺した手紙がありますので、そちらを読み上げます」
驚きつつ、感心し、納得した。死んだにもかかわらず先輩の配慮が生きている。周到な用意には恐ろしさすら感じるほどだ。自分の死というのはそこまで客観視できるものなのだろうか。
母親が手に持っていた紙を開き、読む。
「本日は私のためにお集まりいただきありがとうございます。ご挨拶も無く死んでしまい申し訳ありません。突然のお別れとなり、私も寂しいです。生前におきましてはたくさんのご厚意を賜り、心から感謝しております。幸せな人生であったと自負しております。最後にお願いです。火葬が行われる前に、私のちんちんを見ていってください。通夜や葬儀という場では死に顔を覗いていくのが通例ですが、顔だけを見られるのは腑に落ちないというか、私自身、顔面に愛着があるわけではないのです。己の身体を顧みたところ、最も愛でた部位といえばちんちん、これは間違いないだろうという結論に至りました。他人様のそれと比べてどう、ということではありませんが、皆さまにご高覧いただくとすれば顔よりもちんちん、こちらを強く願います。さらに図々しいことは承知した上で申し上げますが、よろしければ一発しゃぶっていただけますとこの上なく幸いです。一発、と言っても発射する体力は残っていないので安心してください。死人に口無し、という言葉があります。きっとあの世ではしゃぶってもらうことができません。どうか私の体が現世にあるうちに、よろしくお願い致します。どなた様もご遠慮なく」

棺には、1つ余計に小窓が付いていた。

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