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反省と諦め

繁忙期が終わってしばらく経ちます。

4、5月が特に忙しい時期で、6月も中旬になってやっと余裕ができました。

余裕ができると、繁忙期に注ぎ込んでいたエネルギーが行き場を失って、先々の不安を想像したり、過去の恥ずかしかったことを反芻し始めます。そちらが過剰になってくると、目の前の仕事に集中できず、バーンアウト気味になる、というのが最近体感として分かってきました。

それまで切れ目なく毎日動いていて、フッとやることがなくなると、頭がワンワンし始めて、行動ができなくなる。

今回は先に手を打ちました。

先週、ここ数年夏あたりに行っている海辺の宿に、今年も行ってきました。梅雨の時期だというのに快晴で、海の空の境がハッキリと見えました。曇り空をそのまま落としたような、空の灰色を映す海面を見ていた昨年までとは違いました。

一泊した後、近場の農協で売っていたメロンを買ってきました。

その宿から少し車を走らせたところに大きな沼があって、岸沿いにいくつかキャンプサイトがありました。そこを巡りつつ、キャンプをするならどこがいいのだろうと考えて回りました。

そして昨日は、久々に職場の同世代と遊びました。お酒も飲みながら楽しい時間を過ごしました。

飲みながら思ったのですが、飲みの場における男性同士のコミュニケーションは難しいです。

お酒が進んでくると、小突き合うようなコミュニケーションになってきます。悪口を言い合い、煽り合いながら飲む。お互いに相手に負けないように飲む、という具合です。

この状況にはどうしても馴染めず、いつも空気から弾かれてしまいます。雰囲気を壊さないようにお酒は飲みつつ、それとなく場から距離を取って自ら浮く、ということになりがちです。若い女性がいるとこの人はこうなるのかなとか、あの人は飲んでいるようで相手の入社年次を意識して細かく振る舞っているな、などと意地悪い分析も始めてしまいます。

そうするとあんまり美味しいお酒ではないんですよね。

わたしの生まれた家が両親とも母権的だったせいか、男性らしい振る舞いが苦手です。能動的に、他人の顔色など気にしすぎず話す。恥ずかしさなど臆面にも出さず、行動する。そういう振る舞いが苦もなくできる人に劣等感があります。

そういう劣等感、もう少し言うと怨嗟の情(ルサンチマンというやつですね)を自分は持っている、ということに自覚的になりたいと、ここ最近、というかここ数年思っています。

老いもそうなのでしょうが、若いというのも難しいものだと思います。「社会に出る」という言葉があるように、学生を終え、規律訓練を済ませた若者が社会という場に入っていくのが就職なのでしょう。社会の規律も一様ではなくモザイク状でしょうから、「郷に入っては郷に従え」を地で行くような、ある程度出たところでやるしかない状況も、働く上では少なくないだろうと思います。

その場で規律が変わっていく。不文律もある。そうすると、どうしてもそこから逸脱することがあります。そういうときは人間なので、反省します。ただ、反省しすぎないことが大切だと、ここ数ヶ月ハッキリと自覚して生活しています。

おそらく他人から見たわたしは、真面目で、男性的なノリからは浮いている。でも、そんなのは気にし過ぎても仕方ないのです。他人と楽しく過ごしたいという気持ちはあるので、コミュニケーションが上手くいかなかったとき、反省はします。ただ、それは1日が終わるまでにできる分だけ反省する、ということです。

「1日」という、それ自体には意味のない区切りを意識する。最近は、それが「日々を暮らす」ことなのだと思うようになりました。端的にいうと、クヨクヨし過ぎず、明日は明日の自分に任せて、寝る時間がきたらさっさと寝てしまう、ということなんですよね。

このさっさと寝るということが、特に学生時代は苦手でした。出来事を反芻して、何度も同じ反省をして、目の前に集中できなくなるくらい出来事を思い出す。

今から思うと過剰でした。ただ、裏を返すとそれだけ悩む体力はあったということなんでしょう。

昔友人に言われた「悩んでも何にもならないんだから、その時間をもっと別のことに使えたらいいのにって思う」という言葉を思い出します。
厳しい、また難しい言葉だと思います。程度問題としての悩むなのだろうと思っていて、反省はするけれどそれが無限になってはいけない、反芻してもいけない、ということだと解釈しています。

簡単ではないように思います。それでも、一日という区切りを意識して反省し、ある程度は流れに身を任せる。全てに意識を向けがんじがらめになって動けなくなるようなことはやめて、形や枠に身を任せてみる。そういう方向に行きたいなと思っています。

(ねこやなぎ)



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