暮れること、そして時間について

近頃、時間についてよく考えています。

よく過去のことを思い出します。

不慣れでたくさん失敗したこと。他人を信じたくて、でもどう信じたらいいのか分からなかったこと。

クヨクヨするタチで、どうにもできなかったことを悩み続けていました。大学生の頃でした。

素敵な約束をして、応えたいと思って、上手くいかなかった。そういう記憶を思い出すとき、今と過去の遠さを思ってしょんぼりします。ただ、そのしょんぼりの中に温もりもある。そこには確かに喜びがあって、見た景色は鮮やかだったし、時間はゆっくり流れていた。流れる時間に逆らおうともせず、たゆたうことが心地よかった。

時間は非合理なものだと思います。この一文を書いている間も時間は流れる。過ぎる。

未来に想いを馳せても、何かが確かになるわけではない。繁忙期のぼんやりした頭で考えても仕方ないのに、過ぎ去った日のことを思い出す。

時間は不思議ですね。わたしたちは時間がこの先も今までと同じように流れる、と信じている。

今日、明日、昨日。1日。時間があって、そこにミシン目があって、昨日とか今日と呼ばれる。

日の文字が入っていますね。太陽。太陽から見られる存在としてのわたしたち。三人称視点の発生。審問し、審問される存在としての近代的な自我。

もしわたしが世界で1人だけの人間だったとして、時間というものに気づくでしょうか。

進歩主義の前提、大大大前提くらいでしょうか、時間は前に進むものだ、という考え。

過去のことを考えても仕方ないよ、もっと時間を別のことに使えたらいいのに。
と、悩んでいたときに相談していた人に言われました。
その人から見たわたしは、何でもないことに悩み、時間を無駄にしているように思えたんでしょう。

大学生の頃まで過ごしていた東北には、忘れられない景色がいくつもあります。記憶に残る景色。

バス停で待っている間にふと眺める。川沿いに並ぶ民家。庭に生える椿。少し黒くなって、季節がうつろう。狭い道を車が走る。沈む夕陽が橋にかかり、川面に橋の影を落とす。

覚えている風景を記述するとき、それは全く精確ではない。写真ではないし、その場で文章にしたわけでもない。何より、見た頃からもう何年も経っているわけで、そのときに思ったことも、見るまでの経緯も、何も覚えていない。

時間が流れる。鮮やかだった景色は流れ、やっと文章に書けるくらいに色褪せる。

現実という情報の塊とぶつかって、びっくりして、よく分からないままに過ごす。それが現在。
少し落ち着いついて、適度に忘れて、やっと平明な文章になる。何とか現実を生きるために言葉で世界を把握する。

日が暮れるように日々を暮らし、非合理な時間の中で過ごし、忘れ、時間が経つと、やっと思い出せるようになる。

過去がなにか物語になるわけでもない。それでも素敵な景色がちゃんとあった。過ごしてきた。何度も日が暮れるのを見た。暮れていく日々に居た。

上手くまとまらない文章ですね。繁忙期はいつもよりさらにうまく書けません。

(ねこやなぎ)

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