痛み/祈り

僕にはかつて、同棲していた恋人が居た。

地元の街の、良くあるバーで一目惚れし、僕らは結ばれた。僕の家業の呪いだとか、彼女の家族の呪いだとか、数多くの苦境を共に乗り越えてくれた人だった。

そして彼女は、音楽を志す僕と一緒に、上京してくれたのであった。彼女の母親からすれば、ほぼ駆け落ちの様な形だった。彼女を縛る母の力はとても強固だったのだ。

それでもそんな事は僕らでなんとかなる、2人で幸せになろうと約束して、知り合いの元プロボクサー、現万屋のおじさんのトラックと共に東京は世田谷区へと、はるばる僕らは越してきた。おじさんはボックスのセブンスター1カートンでこの引っ越しにかかる全てを引き受けてくれた。

彼女は常に焦燥していた様に思える。彼女は自分の手で、何か確固たる“安定した”幸せを欲していた。
それと同時に、”不安定な“僕を愛してしまう葛藤が彼女を苦しめていたのだと思う。

そしてそれは表層化し、彼女の怒りによって僕に知らされる。その時僕はただ、彼女が「怖い」と思っていた。僕は僕で切羽詰まっていた。東京に来て音楽や、仕事、お金の事が上手くいかない焦りから、彼女の中に存在しない悪魔を見てしまっていた。そしてそれはきっと彼女にも伝わってしまっていただろう。

思えば、彼女はずっと僕に何かを伝えたかっただけなのだ。それは彼女の“祈り”なのか、”呪い“なのかはわからない。でもきっと”痛み“であった事は確かだ。

でも僕は、彼女の痛みから目を背けた。

それが何か鋭利なモノを、僕の柔らかく、脆い心に突き立てられている様な気がして、あまつさえ僕は彼女に傷つけられたと思い込み、納得しようとさえしていた。

貴方を幸せにする、そう意気込み、宣い、彼女を抱きしめた僕はその時どこに行ってしまっていたのだろう。

振り返ると、彼女はただ全身全霊で僕を愛し、肯定してくれていた事がわかる。僕はそれを跳ね除けてしまっていた。そうして尚、彼女に変容を求めていた。

変わらなければいけないのは僕であったのだ。

今になって、ありありとその彼女の痛みを理解し、それをケアできなかった事への強い後悔が僕を襲う。

”もう少し、あの時もう少し僕が成長出来ていたのなら、貴方の痛みを取り除いてあげれたかもしれない。もっとずっと幸せな選択肢を与えられたのかもしれない。“

そんな痛みを僕はずっと抱えている。

悔やみながらも、もはやアクセスできない”あの時“を僕はたくさん持っている。僕が変容し、それを認識できる様になった時、僕は”あれは彼女からの贈与だったのだ“と気付く。

蜃気楼の様な過去からの幻影が、彼女が僕宛に送った贈与の郵便を、正しい住所に書き換えるのだ。

それを受け取った僕は、より美しい未来の為にその力を行使しなければならない。

でなければ彼女の苦悩も、僕の後悔も、僕らが散り散りになったその痛みも、お互いを傷つけあった苦しみの味だけになってしまう。

もう僕に貴方を変容させる力は無いのかもしれない。
だけど、僕は貴方が健やかに、貴方自身の幸せを噛み締めて生きて行ける事を祈っているよ。

この祈りの”郵便“も、どうか正しい住所を刻印され、いつか貴方を形作る幸せに寄与できますように。

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