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パートナーが被支援者になった日

『病める時も健やかなるときもお互いに愛する』と誓ったのは約二十年前のことです。実際はこの誓いを守ることは非常に難しいと感じています。

様々なご家庭があると思いますが、我が家の場合はどうだったのか?を思い起こしていこうと思います。

結婚前の印象

結婚前の夫は大卒で一般就職しており、趣味もあり友人もちらほらいる実に『普通の人』に見えました。
実家暮らしの一人っ子ということもあり自立心はいまいち物足りなく感じることはありましたが、家族を大事にしており信頼関係もあるようでした。

一緒にいることが増えるにつれて薄々感じたことは、自発性が低いことです。こちらが要求することに対しては対応してくれましたが、自主的に気づかないことが多いように感じました。
また自分で言っていたことが一転することも多々あり、変更に振り回されることもよくありました。

とはいえ当時の私は『発達障害』という言葉すら知らず、もちろん特性もわからない状態でした。ましてや一般社会人として生活している彼に発達障害があるとは専門家以外は気づかなかったのはないでしょうか?

変化の始まり

夫がみるみる変化し始めたのは結婚して私が妊娠してからです。
それまでは仕事の時間帯もすれ違いが多く時間が合えば一緒に過ごし、自分の時間もある程度確保できていました。

しかし、妊娠初期から切迫流産で常に痛みを伴ったり病休をとったりと私の生活リズムが変化するとともに夫の生活も『自分だけの生活リズム』ではなくなっていきました。

そして次第に夫に変化が現れてきました。抑うつ傾向です。
マタニティーブルーはよく聞きますが、夫がなるのかどうかは定かではなく、むしろ意外でした。

私は休んだり時短したりと職場の協力を得て仕事を続けました。そもそも退職する選択肢はなかったので、どうにか首がつながるように上司に相談して協力していただきました。

夫はその頃慣れないシフト勤務をしており、特に夜勤には疲弊していました。加えて妻への気遣いだけでもキャパシティーオーバーだったと今では優に想像できます。

一時的浮上と急降下

うつ傾向に気づき精神科受診を勧めたこともありました。私は精神科に対して抵抗はないのですが、夫はよくある精神科拒否型でした。「精神科なんて行きたくない。自分でもどうなってるのかわからないんだ」と話していました。

受診を待てずに私は妊娠八か月の時に切迫早産で入院となり、夫は一人生活をこなしつつ洗濯物などお見舞いにも足しげく通ってくれました。
一人の時間が増えてホッとした面もあるかもしれません。

退院して自宅に戻ると、大きなお腹を抱えつつスーパーを一回りするのもやっとで、お腹が張る痛みをこらえるという生活が始まりました。家事全般は私がこなし、夫の手助けはほとんどなく過ごしました。
負けず嫌いの私にとっては『何でも自分一人でやってやる』と強がっていたのかもしれません。

二週間の過期産となり陣痛誘発のために入院する前日に陣痛が始まりました。(わが子の気まぐれを感じます)
時間はたっぷりあったので冷凍のおかずなどを作ったり、いつ入院しても夫が困らないように入念に準備していました。

そしてやっとわが子が生まれる時が来ました。夫は風邪気味で体調不良でしたが立ち合い出産で声が枯れるほど声がけしてくれました。
その後も公的手続きなど頑張って動いてくれました。

予定通り退院し、私は二週間実家に戻りましたが元々実家暮らしが苦手なので早々に自宅に戻ってきました。

さて、ここからが後のワンオペの日々の始まりです。

夫を擁護するならば最初は育児や家事も頑張って取り組んでくれました。
しかし効率よく行うことができません。優先順位がわかりません。責めているのではなく、事実彼を追い込むことになった原因がこのようなことの積み重ねでした。

赤ちゃんの入浴をお願いしてみました。結果何度も同じことを私から注意されるがシャンプーなどがしっかりできず脂漏性湿疹になってしまったことがありました。
ならば自分がやったほうが効率的です。

夫の勤務時間が変則的なこともありましたが夫が食事介助することは一度もありませんでした。
夫が休みの日は一日中眠っていることが多く、育休の間(一年間)家族でお出かけすることはありませんでした。

夫はどんどん追い込まれ、心身に変調を来たしていきました。
私は夫に協力を求めることをあきらめ、自分一人で育てることを余儀なくされていきました。

逆に『ママがたくさん愛してあげる』という思いが強くなりました。

精神科受診で得たこと

崩れそうな、壊れそうないびつな形の家族を繋ぎとめていたのはわが子でした。わが子の子育てに苦労と没頭することは私自身の自立心を掻き立てました。

わが子が一歳を迎えるころ、夫はさすがに自分の異変を受入れやっと精神科を受診することができました。初めて受診を薦めてから二年経っていました。

そこで私一人に医師から話されたことは、実に衝撃的で理解しきれずに私は困惑しました。内容は
①(夫の本質は)元々の性格のようなものだから、治るものではない
②何かを頼むときは具体的に一つずつ頼むとよい
③生活では放っておくのが良い
などでした。

正直納得できず不消化のまま帰りました。

わが子が二歳半の頃発達障害の診断がつきました。
それから間もなくして夫の口から「根底に発達障害があるって言われた」という話が出されました。

私は居ても立っても居られなくなり、医師からはっきりと話を聞くために夫の通う精神科へ行きました。
私は招かれざる客でした。夫とはいえ患者のプライバシーに立ち入ってきたことに医師は嫌な顔をあらわにしました。そして、付け足された忠告は
①家庭崩壊するので家族はこれ以上増やさないように
②今後一緒に生きていくかどうかはあなたが決めてよい
③夫の役割として仕事をしてお金を稼いできてもらうことを一番にする
④あなたがいくらここに来てもどうにもならないからもう来ないように
でした。

負けず嫌いの私でもさすがに涙が溢れてきました。悔しいけれど返す言葉もありません。
帰りの運転する車の中で号泣し、一瞬死にたくなりました。絶望したのだと思います。精神科の医師に絶望させられて自殺なんてばかばかしいですが、それほど傷つきました。

しかしそんな私を正気に戻してくれたのは他の誰でもないわが子でした。
夫とわが子は別物です。わが子が愛しいことには変わりありません。

なんとか生きる希望を見つけようと必死でした。

そして、夫はパートナーではなく『最低限仕事が続けられるように自由に放っておく生活を提供する』同居者に変わっていきました。

現在の状態

いつの間にか私とわが子の生活、夫の生活の並行した別々の生活が当たり前になっていました。

夫は職場での部署を変更してもらうなどして、なんとか仕事を継続できています。家では自分の居場所をベッドに決めて、まるで巣作りのように物を持ち込んで好きなだけ巣に籠っています。

夫と別々の生活をいつも考えてしまいますが、わが子は家族という個体をとても大切に思っているのでまずはわが子の成長を優先させたいと考えています。

夫のうつ状態が一番ひどかった時期は、まるで亡霊と一緒に暮らしているようでした。

わが子は父親の状態を本能で悟ったのでしょう。用事以外はパパと話す機会は減っていきました。
基本的にお互いが自分のこと以外に関心がないことは幸いかもしれません。

『ママが守ってくれる』という意識の強まりはわが子の『ママがいなくなったらどうしよう』から『ママが死んでしまったらどうしよう』と更なる不安を生み出し、一時は共依存関係を深めてしまいました。

現在はわが子の方があらゆる面で成長しており、不安定ながらも母子分離は徐々に進んでいます。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


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