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家庭は最小単位の社会だ

 言いたいことはタイトルに尽きる。

 別に話すってほど話さないし、なんて言うかな、これはわたしの愚痴なので。
 ほーん、と読み流してもらえればうれしいかな。

 親しき中にも礼儀あり。
 これは血縁関係にも適用してしかるべき言葉なのである。
 相手が、親だから暴言を吐いていいわけがなく、娘だからハラスメントが許されるわけがなく、きょうだい間だから失礼な態度が許されるわけでもない。

 わたしの家族は、ごく一般的な…と言うと語弊があるのかもしれないが、いわゆるごくふつうの、日本の家族だ。
 家庭崩壊もしてないし、家族は仲がいい。

 でもそれは、当たり前に成り立つわけではないのだと、わたしは十年ほど前かな、思い知るのだ。

 さかのぼり十年ほど前。
 父と母が派手な喧嘩をした。原因は父の一方的な怒りだ。
 詳細は省くが、要は母の家事の段取りを知らずに無茶を言った結果、それを断られて激昂し、一ヶ月ほど母が作った料理を食べずにひとりで父がカップ麺をすすっていた、という出来事だ。

 わたしはそのとき、「ああ、この家は母の我慢によって成り立っていたんだな」と思い知った。
 父は、よくも悪くも、祖母、つまり自身の母にジェンダーロールを押しつけられて育った。
 まあ、わたしの父や祖父母の年代にはよくあることだ。
 男は家事なんかしない。外で働いて嫁とこどもを食わせる。そういう役割を当たり前だと思っている。

 だから父は家事に参加しない。
 母は専業主婦だし、もちろん父は外で稼いできていたのだからそれを咎めるつもりはない。
 ただ、家事に参加しないのなら余計な口を出さないでほしいというのも本音である。
 母が立てた献立や段取りがある。それを雑に扱い、食材の都合もあるからと断ったら癇癪を起こすとは何事か。

 虫の居所が悪かったかもしれない。会社で嫌なことがあったかもね。どうしても、買ってきたその食材が食べたくてたまらない気分だったのかも。
 でもそれは父の都合であり、母の都合を計算に入れていないことだ。

 ここでタイトルを回収する。
 家庭は最小単位の社会だ。
 会社が、学校が、仲良しグループが、自分の都合だけではうまく機能しないことを、ご立派な社会人の父ならば知っているはずである。
 ならなぜ、家庭ではその自分の都合を押し通そうとするのか。
 それは父の中に「家庭は社会だ」という意識がないからだろう。

 父が口も利かず食事も食べなかったひと月ほどのうち、母は何度かわたしに涙を見せた。
 母が悲しくて泣くところを、わたしはそれまでほとんど見たことなどなかった。
 自分の何がそんなに気に障ったのだろう。どうしたら元どおりになれるのだろう。このままこじれてしまったらどうしようか。
 そんなことを不安げにぽつぽつと話す母の背中は、小さく見えた。

 結果としてクライシスは回避されたわけだが、それでも母は相当思いつめていたし、なんなら、そのとき父は「離婚しても別にいいけど」みたいに脅したらしい。

 外で働いて疲れて帰ってきて、家がのんびりと自由にできる場所であってほしい。
 その気持ちは分からないでもないが、そうであるために母が、こどもたちが、どれほど相手の気持ちを考え苦心しているかを、父は知らない。

 今でも時折、父はそうした癇癪を起こしてひとりでキレていることがある。
 母の存在をないもののように扱って無視してこどもたちに話しかけてきたり、そしてそうしていることへの理解を得ようとしてくることすらある。

 父のことを、嫌いになりたくないから実家を出た。
 それでも、もう、わたしの中で父の存在は「養育費を稼いでくれてた、たまに実家帰るといるおじさん」くらいの認識だ。
 自分が社会に出て、こどもを育てるだけの金を稼ぐことは簡単じゃないことを知っている。もちろん、そうしてこどもを育て上げた父を純粋にすごいと思う。
 でももう無理だ。社会人、会社人としての父を尊敬こそすれ、親、人間としての父を一ミリも尊敬できない。
 そんな自分に嫌気が差す。だから、距離を置いた。

 父親だって家事や子育てをして当たり前。やったのに感謝されないとか腐ってる場合じゃなくまず自分から母親に感謝を。
 そういう風潮になってきたけど、それはもうそれぞれの家庭の事情があるから、子育てに参加しない父親がいても、母親がいても、家庭ごとに納得があればいい。
 でも、家庭は社会だって、知ってほしい。
 親だからこどもだから、何を言ってもやっても許されるなんて、ありえない。
 その発言をする前に、その行動を起こす前に、もし、目の前にいるのが家族でなく上司だったら同僚だったら友達だったら、と考えてほしい。
 自分は無茶を通そうとしていないか? 他人だったら許容されずに関係を断たれるようなことを強要しようとしてないか?
 他人相手だと考えられることなのに、なぜ家族には甘えてしまうのか。

 もちろん家族だからこその甘えは分かるけど。
 でも、甘えと「何をやってもいい」は違う。
 他人に要求したことが通らなくて、会社でプレゼンした自分の案が通らなくて、ふてくされて大の字に寝転がって駄々をこねる人はほとんどいないだろう。
 だってそれは赤ちゃんがやることだ。
 分別があり、いつも自分の思い通りに行くわけがないことを知っている人間は、そんなパフォーマンスをしない。

 でもうちの父は、家庭ではそれをする。
 それは、行き過ぎた甘えであり、幼稚なことだ。

 わたしの父は、家庭は最小単位の社会であるという認識をいまだに持っていない。
 家庭内で傍若無人にふるまい、自分の要求が通らないとふてくされて駄々をこねる赤ちゃんになる。

 そんな人を人間として尊敬できない。

 長々と愚痴を読んでくれてありがとう。
 もし、これを読んでくれている人に家庭があって、その家庭が今ちゃんと保たれていて、そして今後も保っていきたいと思うなら。
 どうぞ、その気持ちを大切にしてほしい。

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