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まあやのおもちゃ

 俺の住むマンションの隣の部屋に住んでいる家族には、俺と同い年の一人娘がいる。その子とは小中と一緒で、奇遇なことに高校も一緒の、いわゆる幼馴染というやつだ。
 彼女は大きなくるっと丸い瞳に小さな人形のような鼻を持ち、唇はつやつやとしていて頬はうっすらと紅色に染まり、こげ茶色のつやのある髪の毛を肩下の長さで風になびかせている。なんていうか、可愛い。透明感があって清純な空気を醸し出す、その辺の街を歩けば男どころか女だって立ち止まって振り向くレベルの可愛さだ。

「たきちゃん、たきちゃん」

 彼女は俺のことをたきちゃんと呼ぶ。なんてことはない、俺の名前が龍と書いてタキと読むだけの話である。

「何、まあや」

 まあやはほんとうは麻耶でマヤなんだが、俺は小さいころマヤとうまく発音できずずっとまあやと呼んでいた。それが今日まで続いているだけだ。まあやは涙目で、先を歩く俺に小走りでついてきて俺の服の裾を握った。

「何? またいじめられた?」

 まあやはこっくり頷いた。
 中学校のころから、いやもっと言えば小学校のころから、まあやは何かといじめの標的だった。おとなしくて文句や自分の意見を言わないまあやは、最初は好意を抱いているがうまく接せない男子たちの標的となり、それがだんだん女子にも派生して、今や立派ないじめられっ子だ。中学で自我が芽生えてくる女子たちにとって、まあやの美貌とそれに反した内向的な性格は、苛立ちの種にしかならなかったのである。

「まあや、たまには言い返せよ」
「……でも」

 学校の帰り道、俺を見つけたまあやはほっとしたように駆け寄ってくる。クラスが違うから表立って助けてやることはできない。何より中学生の同じクラスだったころだって俺は、まあやを助けてあげたことはない。
 まあやをかばえば、俺が冷やかしやからかいの対象となることは火を見るより明らかだったからだ。やはり中学生男子にその洗礼は厳しい。
 ただ俺ももう高校生になったし、気恥ずかしさからまあやを避けていた時期もあったけどそれも越えた。しかしクラスが違うのだから守りようがない。
 それに、まあやのうじうじした性格が女子の不興を買っているのも分かるし。だから俺はまあやを助けることはせず、代わりにいつもこうして鼓舞するにとどまっている。

「あのさ、別にまあやが自己主張しても誰も困んないんだって」
「……」
「むしろ、しないから皆にいじめられるの」
「……」

 まあやが涙を溜めた目で俺をじっと見つめてきた。とても可愛いが、ここはまあやのためにも心を鬼にせねばならない。

「……とにかく、堂々としてればいじめられたりしないんだから」
「……たきちゃんは、麻耶のこときらい?」
「……」
「きらいだから、そんなこと言うの?」

 嫌いなわけないだろう。むしろ好きだ。
 しかし悲しいかなそんな言葉をすらっと言えるほどスマートな男ではない。俺はいつも、まあやにそうして甘えられるたびに優越感や自分の不甲斐なさや照れやその他もろもろといったいろんな感情をミキサーでごちゃ混ぜにしたジュースを飲んでいる気分になってしまう。
 まあやには、俺や家族しか味方がいないのだ。それがよくないことだと分かっているから、俺はまあやにいつも言い聞かせてる。

「嫌いじゃない。でも、俺ばっかり頼ってたらまあや、俺がいなくなったらどうすんの?」
「……たきちゃん、いなくなるの?」
「たとえだよ。でも、大学が一緒だって保証はないし、人生別々の道行くのは当たり前なんだから」

 歩きながら、まあやはじっと地面を見ている。風にさらっと触り心地のよさそうな髪の毛が揺れる。よさそうな、というのは、俺はあまりに恥ずかしくて触れたことがないのだ。つまりほんとうに触り心地がいいかどうかは、知らない。こんなにいい匂いもするし、触り心地が悪いはずないけど。
 ちなみに、友達にはまあやと仲がいいことを大変羨まれている。男子にとってはまあやの綺麗な顔は羨望の的だ。それがたぶん女子は余計に気に食わないと思うんだけど。
 でも、ほんとうはきっとまあやと仲良くしたい女子はいるはずなんだ。うちのクラスの、まあやの性格を知らない女子は、あんな綺麗な子と友達になりたい、と言っていたし。

「なあ、まあや」

 そうだよ、あの女子を紹介してやればいいんだ、と思いついてまあやに提案しかけると、まあやががばっと顔を上げた。

「たきちゃんは」
「ん?」
「麻耶とずっと一緒にいてくれないの?」
「……」
「人生別々なの?」
「……」
「麻耶、たきちゃんと一緒にいたいよ」

 甘えんな、あと自分を名前で呼ぶな、それからそれからそれから……。
 言いたいことは山ほどある。が、それらはどれも声にならずに頭の中で霧散していく。代わりに出てきたのは、掠れた声だった。

「……俺……」
「たきちゃんは麻耶と一緒はいや?」
「……いやなわけないだろ……」

 負けた。
 そんなうるうると潤んだ可愛らしい瞳でそんな殺し文句を言われて落ちない男がいるか、いやいない。
 のろのろとまあやのほうに手が伸びる。ふに、と柔らかな頬に指が触れて、俺の限界がきた。

「まあや……!」
「あっ、龍~」

 びくっと指が引きつって慌ててまあやから離れていく。我に返った。
 呼ばれた方角を見れば、噂をすれば影である。先ほどまあやに紹介してあげようと思っていた女子が友達数人とこちらにやってくるところだった。

「あっ、崎野さんだ」
「……」

 まあやがぴゃっと俺の背後に隠れた。逃げ足の速さだけは表彰ものだ。ため息をついて、俺はまあやを背中から引っぺがして彼女の前に立たせた。

「まあや、こいつ、お前と友達になりたいんだって」
「……」
「ねえ崎野さん、今度話しよーよ!」
「……」

 まあやが不安げに俺を見つめてくる。

「大丈夫だよ、まあやは普通にしてれば普通の女の子なんだから、友達くらいすぐできるよ」
「……ほんとに?」
「ほんと」

 まあやの視線が、俺から彼女に移る。そして、おっかなびっくり一歩だけ近寄って、新種の動物でも前にしたかのように様子をうかがう。

「まあや、笑って」

 まあやが頬を引きつらせて笑った。それは普段俺や家族に見せているそれとは雲泥の差があったけど、やっぱりまあやは綺麗で女子たちが色めき立つ。そうだよな、女って綺麗なものとか可愛いものが大好きだもんな。
 結局その日まあやが彼女たちと直接まともな会話をかわすことはなく、俺が通訳みたいに馬鹿みたいにべらべら喋っていたけれど、それでもきっとまあやのためにはなったはずだ。
 マンションについて、それぞれの部屋に入る直前、まあやは俺に向き直った。

「あのね、たきちゃん」
「ん?」
「ありがとう」

 そう言って、花のように笑うものだから、俺はそれについ見とれてしまって。

「……今度は俺いなくても、あいつらとちゃんと話できるようになれよ」

 つい、憎まれ口を叩いてしまった。そしたらまあやは、また涙目になって嫌いかどうか聞いてくるのかと思ったけれど、そうじゃなく。

「……うん、がんばる……」
「……」

 進歩だ。ちょっとびっくりしていると、まあやがぐっと握りこぶしを作り、言った。

「たきちゃんが、麻耶に愛想尽かさないように、がんばる」
「……」

 そんな言葉の余韻を廊下に残し、まあやはばいばいと手を振って自分の部屋に入っていった。俺は廊下に立ちつくし、ごつっと部屋のドアに頭をぶつける。

「反則だろ……」

 そろそろ俺はまあやに本気で告白すべきだ、と決意を新たにし、ドアをくぐる。
 そうだ、まあやに自己主張しろとか意見を言えとか言っておいて、自分が一番いくじなしだ。まあやに好きの一言も言えないくせに偉そうに。
 まあやが、あいつらと友達になれたら、俺ももっと勇気を出そう。それまでは、あいつらとの間で通訳でもなんでもやってやる。
 制服のまま自室のベッドに突っ伏して、俺は触れたまあやの頬の柔らかさを思い出して一人で赤面していたのであった。

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