バブルの頃#89:1990年上半期の出来事

◆1990年1月
川原が前年8月に出した辞表を撤回。フランスのテキスタイルチームに加わった。しかしデスクは日本に置き、川原の人件費は日本の負担になった。また、日本マーケットをめぐってパワーゲームが始まった。今回は、アメリカが加わった。米国のエキン出身者がアドルフ本社の商品企画の責任者になり、フランスにテキスタイルのデザインセンターを移した。
ドイツのプロダクトマネージャーたちは、フランスに拠点を移すことになった。ドイツの地方都市ではデザインとかトレンドとかの最新情報を入手することや、有能な人材をリクルートすることも難しかったので、パリ郊外のメゾンにかなりの投資をしたようだ。
ドイツ人創業ファミリーはすでに95%の株をフランス人実業家に売却していたので、パリに商品企画部門を移すことに問題はなかった。しかし、新しい体制での金の使い方は派手になった。パリのデザインチームは城に住んで、贅沢に仕事をしているとドイツ人が言っているのが聞こえてくる。

◆1990年3月
ドイツから出向していた靴職人(プロダクトマネージャー)が日本滞在中に退職し、新興ブランドのインドネシア工場に転職した。
創業時から働いている靴職人を父にもち、親子2代で働いていたドイツ人が、アジアの出向先で退職した。ドイツに帰らずアジアに夫婦で留まる。ドイツ人の職人気質は、パリのエスプリと肌が合わないらしい。アメリカ人の開発責任者は、エキンの手法をとりいれ、ビジネスユニットを導入し、ロゴマークを新たに追加した。

◆1990年4月
ディストリビュータのハードウエア商品企画部長が辞表を出した。
日本のディストリビュータの中でも、動きがでてきた。「現在のポジションでは今後のキャリアアップが期待できないので別の会社にいくことにした」という退職のコメントがドイツと日本で増えてきた。

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