バブルの頃#73:世界一周

1990年2月
ミュンヘン、メッセゲレンデ。

本社や各国に知り合いが増え、どこにいっても独りではなくなった。自分のテリトリーがある出展ブースが5箇所になった。広い展示会場の中を毎日歩き回り、各ブースの商談コーナーで情報交換をする。コミュニケーションが少し楽になった。4つの展示ブースで聞いた話題をとりまぜて残りの1ブースで話しをすればいいわけだ。
こういう手法はだれも教えてくれなかった。常識なのだろう。

ミュンヘンからニューヨークへ移動。
昼間はニュージャージーの会社へ行って製品戦略と仕入れ価格の交渉をする。取引先が空港に大型リムジンを手配してくれた。面白そうな1日が始まると期待した。ニューヨークに戻りマリオット・マーキーに泊まった。ブロードウエーだ。目の前の三角コーナーに当日のチケット安売り屋があった。気温は多分氷点下だろう。

ニューヨークからフロリダ・タンパそしてポートランド。
フロリダの空港を出たら、周りはTシャツに短パン。こちらは、グレーの冬服。
2日滞在してポートランド。また冬になった。
サンフランシスコから成田にもどった。

話題に困ることがなくなってきた。いろいろなビジネスマンと会い、話を聞きその話がつぎの話へ展開していく。台湾、香港、ロンドン、パリ、ミュンヘン、ニューヨークと3週間近く旅をしている。いつも単独行動。土日は孤独だ。ホテルで夜中に目が覚めたり、電話がかかってきたりしたとき、自分はどこにいるのかをまず考える。安全第一を考え、夜は動かない。単独行動はタクシーをつかい、事故や盗難にあわないよう用心している。何か起これば、スケジュールが2~3日空白になってしまう。

航空会社に乗る便の確認をしたり、初めての相手とアポイントをとったり、すべてひとりでやる。書類はたまり、結論をだすことも増えてくる。頭の中でしきりにしゃべっている。時々、ため息や何かしらの言葉が口からでる。家族のことも日本のことも優先順位が低くなっている、日本の新聞も読まないし、文庫本も持参していないので日本語の文字を見ていない。

成田へ向かうJALの機内で、映画を見たが日本語吹替版が奇妙に感じた。登場人物の声に違和感があった。この人がこんな声をだすはずがないと思った。原語版で見た。成田に着いたら、英語より日本語のほうがわかりやすいことがわかった。3週間、相手のいっていることが何かしっくりこなかったのは、英語で話していたからだということに気がついた。

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