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『息』 小池水音

静謐な悲しみがひたひたと満ちた、美しい小説だ。

「わたし」は、十年の間、列車の夢を繰り返し見続けている。
列車の中で、「わたし」は弟の春彦の姿を見つけたり、または隣に春彦が座っていたりするのだが、春彦の存在はとても儚く、その姿はすぐにかき消えてしまう。。。

春彦は、十年前に、自ら命を絶った。
「わたし」も、父も母も、その喪失を消化し、表面上はつつがなく日々を送っている姿をお互いに見せている。
だがそれはあくまで表面上のものであり、それぞれの胸のうちには、消化できない悲しみを抱えていた。
その時の春彦の姿を唯一見ている父は、脱法ハーブの誘惑に勝てず、母は、当日の朝、春彦にかけた言葉を心の底で悔やみ続け、そして、列車の夢を見続ける「わたし」は、持病の喘息の症状が悪化している。

死別とはつまり、死をもっていっぺんに終えられるものではなく、いっときはじまればやむことなく、果てしなくつづくものなのだと知った。

幼少からのかかりつけ医を受診するために帰郷するところから、その直後の父の失踪事件とその後までの、「わたし」の個人的な体験と心の動きが、繊細に描かれる。

文章の心地良さが印象的だ。

もうそろそろ催促されてしまうとおもい、通りがかりの店員に声をかけて、アールグレイの紅茶を一杯注文した。店員は間髪いれず注文をくりかえし、ごゆっくりどうぞと最後につけ加えると、また足早に去ってゆく。

銀色のレバーを両手で握り、体重をかけて、重い戸をどうにか横に引く。すこし開いた隙間にからだを滑りこませて、列車の連結部に入る。そして、つぎの扉に手をかける。連結部の足場は不安定で、うまく腕に力をこめることができずに苦労する。

些細な場面を丁寧なデッサンのように切り取ることで、読み手と「わたし」の呼吸を密着させる、その文章のペースが良い。

かかりつけ医の小川さんとその娘の稜子の存在も良い。
失踪し、酩酊状態の父と、その父を助けようとしながら発作に襲われて意識を失った「わたし」を助けたのは、かかりつけ医の小川さんと娘の稜子。
「わたし」は小川さんとの対話を通して、知らなかった母の苦しみを知り、稜子との対話からは春彦の知らなかった横顔を垣間見、自分の悲しみにも改めて向き合う。

わたしは、春彦が隣にいるこの時間が、いつか終わるものだとわかっている。終わるという、そのことだけをわかっている。

どこかとどこかを繋いで走る列車。
生者と死者が、列車に乗って別れの旅をする。
ジョバンニとカンパネルラのように、「わたし」と春彦もまたそっと座席に並んで座る。

悲しみは消えない。
死者と言葉は交わせない。
しかし、言葉のないところから何かを見つけようとしながら、生者は生きていく。
死者のためではなく、残された者のために、静かに演奏される鎮魂歌のような物語だ。