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『一九八四年』 ジョージ・オーウェル

言わずと知れたディストピア小説の金字塔『1984』を、遅ればせながら読んだ。
特に興味を持つことなく、いつか読もうとも思っていなかったのだが、本屋で何とはなしに手に取った新訳版の文面に興味をそそられて、そのまま購入した。

無骨で理屈くさい小説だとなんとなく思い込んでいたが、想像以上に小説として面白かった。
無骨と言うより情緒的で、ロマンチックですらあった。

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ユーラシア、オセアニア、イースタシアという3つの巨大な国によって構成されている世界。
主人公ウィンストンが住むロンドンは、オセアニアの都市だ。
イングソック(English Socialism)というイデオロギーが支配するオセアニアでは、党による支配によって「独立した思考の可能性を徹底的に潰すこと」が目指されている。
至る所で思考警察が目を光らせ、どこにいても何をしていても、自宅で寝ている間でさえも、市民は常に監視の元に置かれている。
そんな世界で、主人公ウィンストンと恋人ジュリアは反社会集団と近づき党への反逆を決意するが、、、という物語。

「二重思考」という異様な概念が気持ち悪かった。
オセアニアは常に戦時下にあるのだが、その対戦国はユーラシアであったりイースタシアであったり、ころころ変更する。また、報告される産業の成果も、配給の内容も、でたらめと言っていいほど一貫性がない。
白だったものがある日突然黒になる。そして市民に求められるのは、白だったことなど一度もないと思い込むこと。
そのために必要な「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」が、二重思考というものらしい。
過去や記憶に対する絶えざる変換と、そのシステムをスムーズに運用させるための、行き過ぎ臨機応変な思考法。
まるで非現実的な印象を受けるが、案外、そんなことって現実の世界でも実はあるんじゃないかと思わないでもない。


文字通りいつでもどこでも監視の目を逃れられず、徹底的にコントロール下に置かれるという身の毛のよだつディストピア世界だが、私が一番リアルに不快に感じたのは、「憎悪」の時間というものの存在だ(ウィンストンの職場には「二分間憎悪」という憎悪タイムがある)。

決まった時間に集結させられ、これを憎悪しろ、と提示されたものに対して一斉に憎悪の感情表現をさせられる。考えただけで拒否反応が生じた。
私は、集団で一斉に何かの感情を持つよう仕向けられる事が、子供の頃から嫌いだった。
運動会などの学校行事の「一丸となって頑張ろう」のようなものも、どうしても気持ちが悪くて苦手だった。

しかし、そうやって一斉に盛り上がることが高揚感をもたらすことは確かだろう。
ネガティブなもの、攻撃的なもの、まさに憎悪の方が、ポジティブなものよりも強い集団高揚効果があるかもしれない。
思考を麻痺させるために「憎悪」を使うとは、なんともいやらしい手段だ。

「二重思考」や「憎悪」など、概念やシステムにつけられた独特の名前はまた、不気味な支配が浸透している様子を感じさせた。

何かに名前がついていて、その名前の示すものが広く認識されているということは、そのものを知らず知らずのうちに権威づけし、人々の無意識に安心感をもたらすのではないか。
私達の周りでも次々と生み出されている新しい言葉たち。みんなが使っていることで何かが保証されているような錯覚が生まれる。

「はてしない物語」でファンタージェンを救うのに必要だったのが「名前をつけること」であったように、名づけというのは世界に活気をもたらすものでもある。
言語というものも、天気や動物などの名づけから始まったのだろう。
しかし、名づけというのは、案外と危険性もあるものなのかもしれない。


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面白かったが、恐ろしい、重苦しい読書だった。
普段はどちらかというとハッピーエンドよりも暗いエンディングの小説や映画が好みだったりするのだが、今回はハッピーエンドだったら良かったのにと思ってしまったのは、現実の世界で今、あまりに暗いものを見せられ続けているからだろうか。

一方に真実があり、他方に出鱈目がある。もし全世界を敵に回しても真実を手放さないのなら、その人間は狂っていないのだ。

無力なウィンストンの精一杯の勇ましい言葉に、彼の世界の未来がいつか報いてくれるように、一読者として願わずにいられない。