【番外】土台すら借物

学生の頃、明治〜昭和初期の西洋建築を見る度に、どこか違和感を覚えた。しっくりこないものが多かった。しっくりこないのは様式だったと思う。「そこにあるそのもの」をただ観察するだけでは、どうしてこういう形になったのか説明がつかない様式。どこか別の土地環境で成立したものの完成形を、その生まれ育った土地とは異なる場所で、成立の過程を考慮しないままに模倣して作られた建築だから、しっくりくるはずがない。輸入された「様式」が、この土地の過去と結びつかないまま、今も、たぶんこれからも「借物=土地に上乗せされたもの」のままで存在していく様に、どこか違和感を覚えたものと思う。もちろん、建築そのものが素晴らしければ、その素晴らしさを否定することはない。

古来より日本が大陸から「様式」を輸入する際には、独自に土地の文化と結びつけて発展させてきたのだと考えるが、その前提として、まずは「土地から生まれた必要性」が存在していたように思う。そこに、その必要性に合った「様式」が海外から導入される。もしくは、「様式」が導入され、それにどこかで呼応する「必要性」が当てはめられていく。どちらの場合も、時間をかけて、どこかから輸入された様式を徐々に咀嚼し土地の必要性と融合させることで、日本的なものへと作り変えていく。そういう交わり方をしてきたと思う。だから多くの場合、日本に定着した「様式」は日本独自の変化を遂げている。

しかし、明治以降の「西欧化」に関していえば、土地から生まれてきた必要性よりも、対外に向けてへの必要性から急遽「輸入された」制度や思想、様式、言語が上から押し付けられる形で日本に流入してきた状態であるように感じる。決して、「土地」と「気候」と「それに適した生活」と「そこから生まれてくる変化の必要性」に即して「西欧化」「近代化」がなされてきた、のではない。

以降、日本は常に西欧の「様式」をそのまま輸入し導入する形をとってきているように思えてならない。そして、そういうものは大抵日本人という集団が持つ特性や、思考回路、さらには日本語そのものに適していない。

現代の「思考」「体制」「哲学」「方法論」は、「人類共通の概念」であるから、その中でそれぞれ地域的・文化的な差こそ生じてくるものの、基本的にはどの土地でもどの民族でも受容可能である、という考え方が根本にあるからだと思うが、そもそも、「現代の進んだ社会体制や哲学」が人類共通の概念であるという考え方そのものが、そろそろ覆されてもいいと思っている。

考え方というものは、それを考える人間の言語に影響されるものと思う。そして、言語というものは、それが発展してきた土地の気候風土、歴史から生じる「考え方」「価値観」と深く結びついていて、実生活レベルで安易にどこの誰とでも「共有」できるものであるとは考えにくい。

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興味をお持ちいただきありがとうございます。 どこかで何かの役に立っていますように。