サイレント多数の真髄

おそらく日本という国の土台を支えている、声を上げない人々のことを、サイレント多数と呼んでいます。いえ、サイレント・マジョリティでも、声無き群衆でも、静かなる大衆でもいいのですが、なんとなくサイレント多数。語呂がいいのでサイレント多数。あと誰も使っていなさそうなので、意図しない概念が入り込みにくいかと。


昨今の少数派は声が大きく、彼ら彼女らの考えがこの国の代表意見であるかのように紹介されるのを目にすることがありますが、彼ら彼女らはあくまで少数派であり、その意見・考え方とは一線を画す人々が、やはりこの国の多数、少なくとも半数以上なのだろうと思います。しかもこの多数はよほどのことがない限り声をあげない。


声を上げないこの人々は、個性がない、意思がない、群れる、受動的、自分の頭で考えない等、概ね否定的に語られることが多いですが、それは観察する側が、ある特定の視点から見ているためと考えます。主に「現代の共通の価値観」という名の欧米方面の視点から(何しろこれが昨今の物の見方の基本ですから)。そして、その視点から見ている限り、この存在の真髄を見極めることは難しい。


この、日本における多数という人々をただ観察しますと、サイレントではあるものの物事に無関心というわけでも無学でもなく、ただ遠巻きに「見ている」人々であり、かつ、それなりに能動的である、と思います。じっと遠巻きに見る対象がまつりごとや主義主張。能動的に活動するのは暮らし、そして現世(世俗)的な楽しみ。

さらに、バーチャル(観念・概念・仮定・仮想)の中ではなく、肉体的行動を伴う実生活の中にあってこそ真価を発揮する集団である。裏を返せばバーチャルの中にあっては少々露頭に迷いがちな集団である、と。ここでいうバーチャルとは、実生活の中に実感を伴って存在しないもののことを指しています。

で、近頃の、他国始まりの諸概念や主義主張、諸外国の苦難に関する情報、さらにはコロナという目に見えないものの詳細な知識などは、この集団の感性においては、ざっくり「バーチャル」の範疇に入るものなのだと思うのですね。そういった、実(肌感覚)を伴わない情報や知識が過多になってくると、なんとなく右往左往はしてしまう。

が、一度「ともかく日常ではこうすればいい」という実が見えてくれば、水を得た魚のようにあっという間に対応し適応してしまう。(もとより、よくわからないものには触れずに遠巻きに見ておく、という基本姿勢そのものも、自らにとって現実的ではないものへの、ごく現実的な対処方法なのかもしれません。)

ただし、「私たちこう対処しています!」という声は上げない。「声を上げない」のは、そういう信念があるからではなく、特別なことをしている感覚がないからです。何かが起これば現実で対応するのが当たり前。そしてそれを言語化して表明することに然程意義も感じない。聞かれたら控えめにちょっとは答えるかもしれない、という程度。それが、この国の寡黙な多数の感性のように思います。


そもそも、個人的に日本語という言語は、現世の実生活を生き抜くための知恵に満ちた言語であり、理想や観念、概念を語るにはさほど適したものではないと怪しんでいます。

たとえば日本語を母語とする話者たちが、主に西欧始まりの観念や概念を論じようとすると、どこかに無理が生じる。その概念と現実との接点を見つけることができずに、いつのまにか「海の向こうにある目指すべき(辿り着けることのない)理想像」を論じている。発祥地である西欧近辺の文化圏に於いてはあくまで自己の現実と対比させた上に存在する概念であっても、日本語での議論になった瞬間に「自己の現実と対比させ」る前提が迷子になって、ぷつッと現実との結びつきを失う。そして、日本における論者たちは、なぜかそれをよしとするのです(もしくは、それを「理解できない」人々の未熟さのせいにする)。なので主義主張は、大抵どこまでも机上の空論のまま、少数の中を浮遊しています。


加えて、日本語は逆方向もやや不得手。実生活上で多々生じてくる問題をそつなく解決し慣習化させ実行し続けるための話術には長けていても、それをうまく言語にまとめて概念化させることは得意としない(というよりも、そこにあまり重要性を感じない)のだろうと思うわけです。

「理念を解釈して現実世界に反映させる」のではなく、「現実を汲み取って理論を打ち立てる」でもなくて、「目の前に起こったことに現実において対処する。以上」が基本形である、と。


論点が少々散らかりましたが、要は、この国においては、理想や概念、主義主張は、声が大きい少数が唱えるものである。かつその主義主張は大抵実生活と結びついておらず、現実にはほぼ浸透していない。無口な多数はそもそもの使用言語(文化)の性質上、論ずること(発言すること)に重きを置いておらず、代わりに「実=生活=日常」に重きを置いている。故に、押しつけられる主義主張には感化されにくく、概念に囚われることも少ない。ただし「実」の変動には非常に敏感で、変化を強いられると反発するのではなく巧妙に対応する、と言いたい。

そして、その行動の基本形はこのようになっている、と:

・世の流れは遠巻きにじっと見ている
・何かが決まってしまえば決まりだから守る
・取り急ぎ耐えてなんとかする
・取り急ぎ工夫してなんとかする
・いつのまにか現実にそれなりの楽しみを見つける


この国は、こういう特徴を持ったサイレント多数が、少なくとも51%を占めている、と思います。

が、ここで少々分かりにくいのが、このサイレント多数は、静かであるばかりではなく、姿も見せないというところ。ですから、一般に論じられるところの「少数派の声高な意見に流される大衆」と同じ集団ではない、ということに気付きにくい。


メディアやその他で声高に騒ぎ立てる少数が例えば5%といたします(メディアそのものも含む)。その5%の大声や、海外発信の情報に踊らされ、それなりに反応を示す「大衆」が44%。ですから、うるさい少数とそれに踊らされる大衆という構造も、確かに存在するのです。


しかし、それとは一線を画す第三の集団が、44%の影に隠れてこっそり存在しており、それが実は過半数を超えている。たとえギリギリであっても過半数を超えている。これこそがここで言うサイレント多数、日本という国を支える土台集団なのだろうと、そう思います。

この多数が重視するのは、政局でも、主義主張でも、国の経済成長でも、過度な国際交流でも、グローバル化でも、デマでも、感傷でもなく、ただ恙無く過ぎてゆくこの土地での生活(労働を含む)と、自らが愛する物事(それがなんであれ)の存続である、と。そしてそれは、忌むべき視野の狭さを象徴するのではなく、おそらくはポストコロナの世界に最も適合する「地に足のついた生活」である、と言いたい。

現政権が、声の大きい少数とそれに流される44%ではなく、この51%のサイレント多数の現実を見誤らぬことを祈ります。何しろ声を上げようが上げまいが、ちゃんと見てはいますから。

近頃、またしても実のない奇妙な熱気が世間を凌駕し始めたかに見えますが、サイレント多数はおそらく、じっと、メディアの虚とそれに流される人々を遠巻きに見ている。そして、何か声高に主張するでもなく、かといってプロパガンダや情報に過度に流されるでもなく、飄々と自らの現実を生きている。しかも楽しみながら生きている。

そして、おそらくそれは、どんな時でも続くのです。黙々と、声を上げず、どんな物事にも対応し、ひたすら日常を暮らし続ける。しかも、我慢強く、辛さを拒まず、むしろそういう中でも現実的な楽しみを捻り出してくるから、中々絶望に陥りにくい。経済を含め、日本という国を動かしているのはこういう人々であろうと思うのです。

海外の人々が抱く「日本を怒らせると怖い」というものの内情は、実のところ「日本は何をしても何があっても止まらないから怖い」ということなのではないかとも思えます。

薄っぺらいニュースを見て嫌な気分になろうが、報道に描き出される日本の姿にがっかりしようが、この国の現実はまだそういう多数が担っている。そう思えてならないわけです。

そこに希望を抱き、安心もしているという話。

J


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