【番外】文化と文化の組み合わせ 2

国を問わず、「西欧」の文化を若いうちに学んで帰ってきた日本人たちは、芝居(と文学)に啓蒙的な価値を見出す傾向があるように思う。それは、西洋において伝統的にそういう傾向があるからであって(西欧の文化の中に、観劇を疑似体験と思考の刺激として捉えるやり方が成立しているからであって)、特に初期の「日本人留学生」たちが直接影響を受けた、18世紀後半から19世紀の啓蒙の時代においては、「シェイクスピアと英国の演劇文化を賞賛する知識人たちが欧州本土に多く現れ、自らの国のアイデンティティを同様の形で明確にさせようと模索する」中で発展した形であるように感じる。

おそらくは、ギリシャ劇から中世の宗教劇を経て、俗世劇、啓蒙劇へと移り変わっていた経緯が無関係ではないかもしれないし、演劇を総じて「詩=一族・民族・英雄の歴史譚や、それへの賛美を朗唱し聞かせるためのもの」の一種として捉える文化も、そういう地盤を作っているかもしれない。
ともかく、そういう観劇のあり方は、日本における土着の観劇とはきれいに一線を画しているように感じられてならない。

日本における観劇に、本来そういった意味合いは(こと民衆の間には)無いと考えている。日本における観劇は、むしろ情緒的なもので、純粋に娯楽であり、世俗から離れた趣味の一つであり、そうでなければ神事である。特に娯楽としての観劇に人々が求めるのは理想であり、夢であり、風雅の趣であって、総じて非日常の世界と思う。そこに人々が求めるものは、「リアリズムと思考的刺激」ではなく、ごく純粋に「夢のひと時」なのだと考えている。日本の大衆にとっての観劇とは、徹頭徹尾「娯楽であり趣味」と言い切っても良さそうな気がする。

ただし、そうではあるけれども、同時にその娯楽と趣味に「道」という概念が持ちこまれているため、芸を行う人々はその「娯楽」という「芸事」に対してごくごく真剣でもある。故に、他国の人間からすれば、それが根本的には純粋な娯楽を担うものであるようには解されにくいのではないだろうか。故に、西洋の観劇との根本的な違いも、もしかすると見えにくいのではないかと思う。だから、西欧で西欧的感性を学んできた日本人たちも、日本にだって啓蒙的な理性的な「演劇」が導入できる、という幻想を抱けてしまえるのかもしれない。


日本に西洋的な「演劇」を導入しようという動きは、日本が開国して以降、少なからず起こってきたことではあるけれども、それが根付いたとは言い難いと考えている。そもそも受け入れる側にそういったものを望む必要性がないからで、それを「概念」として上から押し付けても、決して民衆の中に根付くことはない。だから、例え「啓蒙的芝居のようなもの」が、概念のみに支えられて存在していても、それが受け入れられている先は多くの場合西洋(しかも東欧)であって国内ではない。日本の観客には、ただ「西洋で受け入れられている」からという理由でしか、受け入れられていない気がしなくもない。

結局、日本の演劇に現在も求められているものは、「現実とは乖離した理想の世界を体験するための夢のひと時」であり、それが国民性に根付いたこの国の観劇の本質なのではないかと思う。そして、それは見下すという意味合いでも、西欧の演劇文化と比べて卑下するというわけでもない。それが、この土地と国民性に合った「あり方」なのであって、そこにまた、西欧的な価値観からは推し量ることのできない深遠な価値と意義が存在すると思えてならない。

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