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7.言語の成立

体験・体感を伴う実際の認識を「ある音」に置き換えることができ、かつその「音」を蓄積することができる脳を有する、ということが人類共通なのだと思っている。

今、そこにないものでも、体験したことがあるなら、その認識と、ある特定の音とを繋げ、その「経験ある認識の代替え品」を蓄積する。ヒトは長い長い年月をかけて、少しずつ脳をそのように適応させていき、
・そういう認識の仕方(経験を特定の音に置き換える)
・その「認識の代替え品」を蓄えること
が出来るようになった。

この「認識の代替え品の蓄積」が、ヒトの頭の中に作られる擬似世界の大元なのだと思っている。そして、その間を繋ぐものが、言語だと考えている。

で、この言語というもの。ヒトは共通の言語構築能力を潜在的に有する、という考え方、いわゆる「数学的」な解説が腑に落ちない。理解と解析のための理解と解析になっている気がしてならない。

「体験・体感を伴う実際の認識を『ある音』に置き換えることができ、かつその『音』を蓄積することができる脳を有する」というハードウェアは確かにヒトという動物共通の特徴と理解している。で、ヒトがそのような脳を得ることになったのは、生き延びる中で生じてきた必要性に適応したためで、ヒトの最大の強みが、その適応能力の高さなのだと考えている。

ヒトは、「生きる中で生じてきた必要性に適応し、上記のような脳を有することになった」として、さらに「その適応した脳を駆使し、さらに高い適応能力を発揮して、どんな自然環境でもそれなりに生きることができるようになった」とする。生存している土地の自然環境がどのようなものであってもある程度適応して、ヒトという種の生活を営むことが可能になった、と。

そして、体験・体感を伴う実際の認識を「音」に置き換え、蓄積していった先にあるものが言語と理解している。ので、その「言語」は、ヒトが適応して生きている(=体験・体感を伴う実際の認識を得ている)その土地土地の特徴(自然環境)と密接に関わっていることになる。

自然環境→それに適応した生活→生活の必要性に基づいたコミュニケーション手段=言語という理解。

ヒトは、その適応能力の高さで、其々の自然環境の中で生き抜くのに最適な状況を作り出し、それぞれの状況に適した生活を作り上げて生存してきた、とすれば、自然環境の違いによってそれぞれ最適な「適応方法」が異なるのは自明の理と思う。生息する土地によって文化風習が異なるのはそのゆえで、自然環境が異なれば、適応の仕方が異なる、そのそれぞれの適応の一環に言語があるというだけのことと思う。

周囲の環境(自然環境)とそれに適応した生活の中で、それぞれが、まずは体験・体感を伴う認識を「音」に置き換えて蓄積していき、その先にある言語は、それぞれ、その言語が形成されていった土地の自然環境に準じている。

「言語」も「その言語が育った土地の文化・風習」も、何しろまずは、その土地の自然環境の上に生じたものであるという前提を持っている。

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興味をお持ちいただきありがとうございます。 どこかで何かの役に立っていますように。