【番外】困ったカタカナ語

近頃のビジネス用語が大方カタカナなのは、そのあたりを定義をしたり、制度を導入したりする上層の人々が基本アメリカ帰りであり、「ビジネス」の世界は基本英語で回っており、日本も「グローバル」の一部なのであるから、仕方がないのかもしれないけれども、なんだかなあと思う。

台湾の知人が近頃は中国語でも「カタカナ表記」に当てはまる類の語が増えたと言っていたから、当然日本だけのことではないのだと思う。ローマ字表記を導入して、古来の文字を失ってしまった国もある。明治時代に、日本語も「ひらがな、漢字、カタカナ」を捨てて、ローマ字表音を導入すべきという議論が一部でまことしやかに行われていたというが、一部先人がそれに反対してくれて本当に良かったと思っている。英語と格闘するのが仕事のようなもので、英語という言語を愛してはいるが、様々な日本の機微は日本語でしか表現できないとしみじみ思う。逆に、アルファベットの英語でしか成り立たない概念が腐る程あるな、とも思う。カタカナ語は大抵、英語でしか成り立たない概念を、うまく日本語に置き換えられずカタカナ表記に放置したものだと思っている。

ただ、取り急ぎカタカナ語表記で導入したって、そもそも概念そのものがないから、その言葉たちはあやふやなまま、人々に押し付けられていく。そのうち、現場で非常に独特の解釈をされ、そのカタカナ語は独特の意味を伴う「日本語」へと変化する。大抵、大元の英語の概念とはかけ離れたものになっている。新しい日本語の誕生なので、それはそれでいいと思う。言葉によっては、そのふんわり感があまりビシッとした表現を使いたくない日本人の感性にもあっている気もする。

が、問題は「よーわからんが、こういうこっちゃ」とふんわりと当てがわれた定義のほう。そういう「カタカナ表記」は意図せず二重意味も持っていて、非常に訳がわからない。カタカナ語を使っているくせに、頭の中では英語を思い浮かべている人々が理解する意味と、「こういうこっちゃ」の新たなカタカナ日本語そのものの持つ意味と。

大元となる英語の「そういう概念」は非常に効率的で素晴らしいもので、同様の効果を期待され導入された「概念=言葉」だったとしても、適切な「日本語化」を怠ったせいで、日本においては「よー意味がわからんがなんか守らにゃいかん何か」という単なる無駄になっていることが多い。無駄どころか手間になっていることも多い。一部の優れた経営者の人々は大方そういう言葉に惑わされていない気がする。うかつに概念を導入することもおそらくない。一般論としてそのカタカナ語を使うことはあっても、実際の現場では使い分けている。たぶんだから優れている。

アメリカ帰りのMBA持ちの、アナリスト氏や半端な経営者氏や経済学者氏や政治家氏、もしくはそういう類の翻訳本を読んでうっとりとカタカナ語を鵜呑みにする人々に、まずは目の前にある現実を見ろと言いたい。

ちなみに都民ではないので現都知事に特別な感情はないが、「ファースト」「オーバーシュート」「ロックダウン」「ソーシャルディスタンス」、「メルクマール」ですか、とだけは思う。しゃれた言葉とイメージで、世論は動くが現実は動かんわい、とも思う。

カタカナ語の説明はちゃんとしている、英語(その他)の概念を日本語に置き換えるのは難しいからカタカナ語で表現するしかない、というのはまあそうだ、と思うけれども、そもそも「概念」と「判断基準」を常に海外に求めるなよ、まずは日本の現実見とこ、そこから対策を捻り出せば、少なくとも概念の「翻訳」に困ることはないから、と思う。それに、たぶんそうする方が、手間も省けて現実的にも最も効果があるような気がしている。

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